ベルリンのミッテ区議会は、十数年にわたる議論の末、11日の夜、アフリカン・クォーターでの新街路名使用を勧告することについて投票を行った、と広報担当のメリータ・アーセク氏が発表した。「地区評議員による最終決定にはさらに1カ月ほどかかるかもしれない。4月19日の次の公聴会で、決定日を発表できる可能性が高い。」とアーセク氏はAFPに語った。
1884~1919年にかけて、当時ドイツが南西アフリカ(現ナミビア)で行った残忍な植民地支配を連想させる街路名を排除する動きは、地元活動家にようやく長年切望していた勝利をもたらした。...
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ベルリンのミッテ区議会は、十数年にわたる議論の末、11日の夜、アフリカン・クォーターでの新街路名使用を勧告することについて投票を行った、と広報担当のメリータ・アーセク氏が発表した。「地区評議員による最終決定にはさらに1カ月ほどかかるかもしれない。4月19日の次の公聴会で、決定日を発表できる可能性が高い。」とアーセク氏はAFPに語った。
1884~1919年にかけて、当時ドイツが南西アフリカ(現ナミビア)で行った残忍な植民地支配を連想させる街路名を排除する動きは、地元活動家にようやく長年切望していた勝利をもたらした。
多民族の労働者階級が多いウェディング地区のアフリカン・クォーターには、ドイツ領南西アフリカの創設者アドルフ・リューデリッツ、西アフリカ長官のグスタフ・ナハティガル、そして今日のタンザニアにあたるドイツ領東アフリカの創設者カール・ペータースにちなんだ街路名や街区がある。
ウェディング地区も、12世紀の貴族ルドルフ・ド・ウェディンゲが命名の由来だ。
「アフリカン・クォーターはいまだ植民地主義とその罪を美化している。これは我々の民主主義の理解と対立し、永続的にベルリン市に悪いイメージを与える。」とドイツ社会民主党(SPD)、緑の党、左翼党(リンケ)の議員らは共同で語った。交通の流れに基づいて地区を再開発後、マジ・マジ大通り、アンナ・ムンガンダ大通り、コーネリアス・フレデリックス通り、ベル広場といった名称に変わる。
マジ・マジとは、自由を求める闘争で使用されたスローガンであり、1905年のドイツに対するアフリカ最大の蜂起の名前(マジ・マジ反乱)にもなった。
アンナ・ムンガンダは、独立運動における主導的役割を果たしたヘレロ族最初の女性であった。コーネリアス・フレデリックスはナマクア族の蜂起を率いた。ドイツは1904~1908年にかけてこれら先住民族数万人を殺害した。これは歴史上20世紀最初の大虐殺と言われている。
ルドルフ・ドゥアラ・マンガ・ベルはドゥアラ族(今日のカメルーン)の王であり、1910年代に妻エミリーとともに白人の領土奪取に抵抗した。
イギリスやフランスなどのヨーロッパ諸国と比較すると、ドイツのアフリカ植民地支配は非常に暴力的だった期間が比較的短かった。ドイツは植民地時代の残虐行為を認めているものの、ナミビア政府への開発援助に数百万ユーロを費やしていることを理由に直接賠償を拒んでいる。
通りの名称変更の承認に向けての準備は整っているように見えるが、日刊紙「ターゲスシュピーゲル」は、住所変更に伴う費用に不満を抱く住民や企業が反対する可能性はあると伝えている。
この議論は、保守的なキリスト教民主連合(メルケル首相の所属政党)からの支持を得ている。極端な保守主義を唱えるAfDは通りの名称変更自体に反対している。
区議会は原則として2016年に名前を変更することに合意し、名称の候補を選定するため、南アフリカの反アパルトヘイト活動家で歌手のミリアム・メクバさんやケニアのノーベル平和賞受賞者のワンガリ・マータイ氏を含む審査員団を任命した。さまざまな候補について、長く、時には熱い議論を重ね、最終的なリストを完成させた。
アフリカン・クォーターは、第一次世界大戦前夜に、起業家のカール・ハーゲンベック氏が地区にアフリカの動物や人間を展示する公園を計画していたため、このように名付けられた。ハーゲンベック氏の早過ぎる死により計画は実現されなかったが、ドイツ植民地時代を称えていくつかの通りは改名された。
ナチス時代、ベルリンの壁による冷戦時代、その後の東西統一にあわせて、ベルリンでは通りや広場の改名が繰り返されてきた。
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