未解決事件・松本清張と帝銀事件・74年目の“真相~(3/25再放送)
敗戦国となった日本。GHQ連合国軍総司令部の統治下で戦争の勝者と敗者が交錯し、混沌を生み出していた1948年1月26日、東京で帝銀事件は起きた。
閉店直後の帝国銀行椎名町支店に都の衛生課の職員を名乗る男が現れ、集団赤痢が発生したとの理由で、自身が手本となり薬を飲み、信用させた上で赤痢の予防薬を銀行員達に飲ませた。結果、8歳の子どもを含む12人が死亡した。
警察は2万人を動員し犯人の本格的なモンタージュ写真を作成、7か月にわたり捜査を続けた。...
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敗戦国となった日本。GHQ連合国軍総司令部の統治下で戦争の勝者と敗者が交錯し、混沌を生み出していた1948年1月26日、東京で帝銀事件は起きた。
閉店直後の帝国銀行椎名町支店に都の衛生課の職員を名乗る男が現れ、集団赤痢が発生したとの理由で、自身が手本となり薬を飲み、信用させた上で赤痢の予防薬を銀行員達に飲ませた。結果、8歳の子どもを含む12人が死亡した。
警察は2万人を動員し犯人の本格的なモンタージュ写真を作成、7か月にわたり捜査を続けた。そして1人の容疑者が北海道で逮捕された。横山大観の弟子で一流の画家として知られていた容疑者で、当時、事件現場の近くに住んでいた。事件直後に出所不明の大金を手にしていたことに加え、アリバイも立証できなかった。1か月以上の取り調べで自白し裁判で死刑判決が確定した。
帝銀事件捜査には膨大な資料が残されており、捜査員たちが当時、陸軍を調べていたことがよくわかる。事件が起きた1948年には、戦地から軍人たちが続々と帰還していた。全く知られていなかった南方軍防疫給水部(インドネシアバンドン支部)は東南アジアに支部を広げていった。
この防疫給水部は戦場で汚れた水をろ過し、感染症予防を行うことを主な任務としていたが、その裏では毒物の研究を行い、青酸銀の薬品注射の研究をしていたと捜査資料に書かれている。
警察は南方軍防疫給水部とつながりのあった関係者と網を広げていき、その2カ月後、731部隊の壁に突き当たった。731部隊は戦時中、細菌兵器開発のため旧満州で人体実験を繰り返していた。青酸カリを使った人体実験もしていた。
捜査員は部隊を率いていた石井四郎部隊長の居場所を割り出し接触、当時、石井は「(犯人は)俺の部下にいるような気がする」と発言していた。
捜査員は731部隊と深いつながりがある極秘研究機関・登戸研究所にも注目した。ここでは細菌を搭載した気球を米国まで飛ばす風船爆弾などの実験など、戦時下の諜報活動で使われる秘密兵器の製造をしていた。
終戦とともに研究データや資料は焼却されてしまったため、詳しい実態はわかっていないが、登戸研究所から旧陸軍が青酸ニトリールを持ち出していたことがわかっている。そうして持ち出された青酸ニトリールが帝銀事件で使われたとしても不思議ではないと登戸研究所の幹部は残された音声テープの中で語っている。
ここまで迫りながら捜査が転換されたのはGHQが圧力をかけたからであるとの仮説を松本清張は打ち立てた。当時は占領下であり、GHQは警察も報道機関をも管理下に置いていたことを考えればつじつまが合う。
ごく限られた人しか見られないという、マッカーサー名義で米国に送られた文書には、731部隊が戦時中に行った人体実験データを独占する代わりに石井部隊長達の戦争犯罪を免責するよう提言していた。
帝銀事件の裏側で行われていた取引、731の存在が知られることをGHQは望んでいなかった。当時、ソビエトをはじめとする共産主義国の機運が強まり、東西冷戦の緊張が高まっていたことに危機感を抱いた米国は日本を反共の防壁と位置づけ、ソビエトに日本軍の機密情報を漏らさないようにしていた。
GHQ関係者は石井四郎部隊長に頻繁に会いに行っていたという。服部卓四郎大佐と有末精三中将は陸軍参謀本部の中枢で作戦の立案・指揮を担っていたが、戦争の責任を問われることなくGHQと急速に関係を深めていった。
帝銀事件について問われるとGHQの存在をほのめかす一方で、軍関係の捜査に難色を示し、注意を与えていたといい、捜査に関係していた軍関係者たちも次第に口をつぐむようになっていった。
明治大学・山田朗教授は「戦争犯罪は犯したが追及せず、むしろ隠蔽してしまう。データを独占し、全く違った流れができてしまう。末端で関わった人達まで免責することが具体的に語られ始めたのが帝銀事件のまさに捜査をやっている最中であり、ある意味、分岐点にこの帝銀事件はある」と分析した。
昭和の終わりともに95歳で容疑者は死去。獄中で描かれた絵の展覧会が開かれ、現在20回目の再審請求が行われている。今の日本が形づくられた占領期、捜査員たちが垣間見た闇は1人の画家の逮捕とともに歴史の奥へと消えた。
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廃炉への道2024・瀬戸際の計画・未来はどこに~(3/16放送)
東日本壊滅の危機に直面した原発事故。あれから13年が経過した。国と東京電力が示した廃炉のロードマップは、「最長40年で廃炉を完了する」計画だったが、今、岐路に立たされている。
当初の計画では最初の10年で、溶け落ちた核燃料が構造物と混ざって固まった「核燃料デブリ」取り出しのための準備を行い、2021年までに取り出しを開始する。2036年までには取り出しを終え、建屋の解体処分を開始するという道筋を示していた。...
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東日本壊滅の危機に直面した原発事故。あれから13年が経過した。国と東京電力が示した廃炉のロードマップは、「最長40年で廃炉を完了する」計画だったが、今、岐路に立たされている。
当初の計画では最初の10年で、溶け落ちた核燃料が構造物と混ざって固まった「核燃料デブリ」取り出しのための準備を行い、2021年までに取り出しを開始する。2036年までには取り出しを終え、建屋の解体処分を開始するという道筋を示していた。放射性物質を拡散させるリスクを減らしつつ、住民の帰還を進めていくことを目指していた。
実際には核燃料デブリの取り出しは進んでいない。2度の延期を経て2024年3月、いよいよ数グラムのデブリ取り出し作業に着手したが、ロボットアームが開口部に詰まっていた堆積物に阻まれて作業が進まず、3度目の延期を余儀なくされた。
根本的な課題は総量880トンとされるデブリの取り出し方法について見通しが立っていないことである。
原子炉を囲う格納容器を水で満たすことにより、デブリから出る強い放射線を水で遮蔽しつつデブリを取り出すとする「冠水工法」は、米国のスリーマイル島原発で実績があったが、福島第一原発は損傷が大きく、格納容器に入れた水が漏れ出してしまうために難しいという結論に至った。
「冠水工法」とは別の取り出し方法である「充填固化工法」はどうか。この場合、カギとなるのは、放射線を遮蔽する性質を持っているセメント系の充填材で、これを建屋の上から注入し、その後、原子炉や格納容器の底などデブリがある箇所を固めていくことになる。
その後、固まった構造物をボーリングなどで掘削し、その中に含まれるデブリを回収し、外にある容器に移していく。「冠水工法」に比べ準備期間は比較的短くなるが、まだ研究段階レベルであり、実現できるかは未知数。
問題はデブリの取り出しだけではない。実は汚染水が今も毎日約90トンも発生し続けている。この問題は地下水が原子炉建屋に流れ込むことによって生じている。より具体的に説明すると、地震と原発事故の影響で建屋周辺の地下水の水位が上昇する中、その地下水が配管の貫通部の隙間などを通って建屋の中に流入することで汚染水となっている。現在、複数の対策工事が行われているものの、全て順調に進んでも毎日50トンから70トンの汚染水が発生すると推定されている。
当初のロードマップでは2020年には建屋内の汚染水をゼロにし、水処理を完了させるとしていたが、計画は見直され、現在、その見通しは立っていない。ほとんどの工程が遅れる中、東京電力は未だに「最長40年で廃炉を完了する」と掲げ続けている。デブリ取り出し工法評価委員会・更田豊志委員長は「一番恐れているのは最初に打ち出したものを硬直的に守り続けることだ」と指摘している。
最長40年という廃炉計画が揺らぐ今、廃炉を進めていくためには住民の理解がますます重要になってくる。住民と、どう対話し、どう合意を形成していくべきなのか、ここで問われてくるのは信頼関係の構築である。
1つの例として考えられるのは、今から45年前の3月28日に機器の不具合と人的ミスが重なり、メルトダウンが起きたスリーマイル島原発事故である。この時、事業者と住民を双方向でつなぐ市民パネルが設置された。
この市民パネルにおいては、事業者が国の認可を得るためには住民の意向を無視できない仕組みになっていた。市民パネル設置者のレイクバレット氏は「決して簡単なことではないが、時間をかけて相手の話に耳を傾け、共感を示すことで信頼を勝ち取らねばならない」と語った。市民パネルは13年間、78回にわたって行われ、その結果、住民たちは事業者との間にある溝が埋まっていったと感じるようになった。議論は2037年まで続けられる予定である。
実は福島第一原発の最長40年という廃炉のロードマップそのものも、10年余りでデブリの取り出しをほぼ終えたスリーマイル島原発の廃炉を参考に作られたものであった。ただその状況は福島とは大きく異なる。事故の規模が大きく、廃炉そのものが(スリーマイル島原発に比べ)はるかに困難である。膨大な放射性物質の放出で地域に甚大な被害が広がり、国や東京電力に対する住民感情も厳しく、合意のハードルも高い。
13年前、日本中が共有した危機感。それを過去のものとしないためにも、これからも長い年月をかけて続く廃炉と福島の復興に日本全国の人々がどれだけ目を向けていけるか、私たち一人一人に問われている。
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語れなかったあの日・自治体職員たちの3.11~(3/10放送)
東日本大震災から13年。最前線に立った自治体の職員たちがあの日の苦悩や葛藤を語り始めている。自治体職員は自らも被災しながら災害対応にあたり、過酷な光景を目の当たりにしたが、住民を支える立場上、これまで自分たちの経験を語れずにいた。今回、あらゆる現場に向き合った職員たちが巨大災害の実像を初めて語った。
文化人類学の手法を用いた「災害エスノグラフィー」という手法が始まったのは29年前の阪神淡路大震災で、災害対応にあたった人たちに対してあらかじめテーマを設定せず、体験をありのままに語ってもらうことで災害をさまざまな側面から捉えようとするもの。...
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東日本大震災から13年。最前線に立った自治体の職員たちがあの日の苦悩や葛藤を語り始めている。自治体職員は自らも被災しながら災害対応にあたり、過酷な光景を目の当たりにしたが、住民を支える立場上、これまで自分たちの経験を語れずにいた。今回、あらゆる現場に向き合った職員たちが巨大災害の実像を初めて語った。
文化人類学の手法を用いた「災害エスノグラフィー」という手法が始まったのは29年前の阪神淡路大震災で、災害対応にあたった人たちに対してあらかじめテーマを設定せず、体験をありのままに語ってもらうことで災害をさまざまな側面から捉えようとするもの。災害エスノグラフィーは自治体職員だけでなく、一人一人が次の災害に向き合う力になるという。
発災直後は被害の状況をつかめずにいた宮城県危機対策課・伊深俊克さんは燃料の調達を1人で担当することになった。沿岸部で犠牲者が次々と増える中、限られた燃料をどこに配るのかは命の優先順位をつけるような作業であり非常につらい作業であったという。
伊深さんは「深夜に行われた、政府との合同会議で、病院から『燃料が来てない』という催促の電話が何度もかかってくるのだけれど、どうなっているのでしょうかと政府の方に確認したところ、『実は(燃料を運ぶ)タンクローリーは出発していませんでした』と言われ、『えっ』となって政府の方に『ふざけんな!人の命がかかっているんだぞ』とつい声を荒らげてしまった」と証言した。
日に日に増える遺体で火葬場の対応が追いつかない事態が生じる中、宮城県食と暮らしの安全推進課・武者光明さんは「火葬場がない、なんとかしてくれと言われていた。土葬といっても、どうやればいいのか誰にもわからなかった。そこでネットで検索して関西で今も土葬をやっているところがあることを突き止め、そこに連絡し、いろいろと教えてもらった。それをメモにし箇条書きにフローチャートを作成した」と証言したが、これが土葬のマニュアルとなった。
土葬に携わった気仙沼市環境課・村上安さんは1度は土葬を承諾した遺族から遺体を掘り起こして火葬してほしいとの依頼を受けた。
村上さんは「ご遺体にファブリーズかけていいですかとお願いして掘り起こしをやりました。それぐらい過酷な状況でした」と涙ながらに証言した。
この国を繰り返し襲う巨大地震。常に想定を超えて迫りくる危機に命を脅かされ続けている。自治体職員たちの言葉は未来を救う手がかりとなる。
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“絶望”と呼ばれた少女・ロシア・フィギュア・ワリエワの告白~(3/3放送)
15歳でシニアデビューを果たし、男子でも難しいとされる4回転ジャンプを軽々と飛び、他を寄せつけないその強さから「絶望」という異名で呼ばれるようになったロシアのフィギュアスケーター・カミラワリエワ。過去の大会でのドーピング違反が発覚し、2022年の北京五輪で頂点からどん底へと転がり落ちた。
ROC(ロシアオリンピック委員会)の一員として出場したワリエワは4回転を成功させ、団体戦でチームの金メダルに貢献したが、この直後、ワリエワが2か月前に出場した国内大会でドーピングの陽性反応が出たことが判明した。...
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15歳でシニアデビューを果たし、男子でも難しいとされる4回転ジャンプを軽々と飛び、他を寄せつけないその強さから「絶望」という異名で呼ばれるようになったロシアのフィギュアスケーター・カミラワリエワ。過去の大会でのドーピング違反が発覚し、2022年の北京五輪で頂点からどん底へと転がり落ちた。
ROC(ロシアオリンピック委員会)の一員として出場したワリエワは4回転を成功させ、団体戦でチームの金メダルに貢献したが、この直後、ワリエワが2か月前に出場した国内大会でドーピングの陽性反応が出たことが判明した。
ドーピングは本当なのか?本人にインタビューした。
ワリエワは「私が言えるのは、意図的にドーピングをしてはいないということだけだ。ロシアのアンチドーピング機構の講習も受けてきた。最大限ルールに従うよう努めてきた。五輪は素晴らしいスポーツの祭典で、出場することを夢見てずっと練習をしてきた。しかし、残念ながら全く想像もしていなかった気持ちになった」と語った。
以前から国家ぐるみのドーピングを疑われ続けてきたロシア。世界アンチドーピング機構による調査では2011年からの5年間で1000人以上のロシア選手がドーピングに関わっていたと報告されている。
その後の個人戦。ワリエアは要保護者の年齢にあることなどを理由に猛反発の中、出場が許可されたが、もはや平常心で演技ができる状態ではなく、4回転でミスを連発、結果は4位となった。
ロシア国民は北京オリンピックから帰国したワリエワを温かく迎えた。ロシアのメディアもワリエワが被害者であるかのような報道を繰り広げた。プーチン大統領はワリエワをクレムリンに直接招き、団体戦での貢献をたたえ、世界からの非難を一蹴した。
2022年2月24日、北京オリンピックが終わったわずか4日後にロシアはウクライナに侵攻し、ロシアのアスリート達を孤立させることとなった。ウクライナでは分かっているだけでも1万人を超える市民が死亡、多くのアスリートたちが戦場に向かい400人以上が命を落とした。さらにウクライナのスポーツ施設は500以上が破壊された。
インタビューでワリエアは「今はいろいろな感情が混ざっていてうまく答えることはできない。私たちはスポーツ選手だから、リンクの外で起きていることはどうすることもできない」と語った。
ドーピング違反を巡る審議は依然として続き、ワリエワは国際大会への復帰の見通しが立たないまま、2度目の冬を迎えていた。選手としてのピークが刻一刻と過ぎ去ろうとしていく。
大方の予想では当時15歳で要保護者だったワリエワへの処分は限定的になるとみられていた。この時目標としていたのはひと月後に行われる国内最高峰の大会ロシア選手権。全く跳べていなかった4回転ジャンプにも挑戦を続け、成功率を4割ほどまでに戻していた。
2023年12月、ロシア選手権の本番を迎えた。楽々と4回転を飛ぶ後輩たちが追い上げてくる中、緊張したワリエワは冒頭で4回転に失敗したが、その後は持ち直し、練習で追求していた演劇のような表現を貫いて3位となった。ワリエワの演技にロシアの観客からは大きな声援が送られた。
2024年1月、遂にドーピング違反を巡る裁定が出た。2025年12月25日まで国内外の全ての大会に出場できないという重い処分となり、この2年間に出場した大会も失格となった。
ワリエアは北京オリンピックの団体戦金メダルを失い、3位だったロシア選手権の結果も無効とされた。ロシア政府はワリエワの処分に対し強く反発し、異議を唱えている。このまま裁定どおりとなればワリエワがリンクに立てるのはワリエアが19歳となる2年後となる。
ワリエアはインタビューで「私がもう終わりだという人には言わせておけばいい。選手としてはもう厳しいという人もいる。でも私が自分の中で耐えられると思ったら耐えられるし頑張るしかない」と語った。
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戦場のジーニャ~ウクライナ・兵士が見た“地獄”~(2/25放送)
今回のNHKスペシャルは、テレビカメラマンだったウクライナ兵のジーニャ自身がスマートフォンや小型カメラを使って撮影した実際の戦場の様子を放映した。映像には徐々に追い詰められていく彼らの姿が記録されていた。
ジーニャの任務は、ロシア軍に不法に占領されたウクライナの領土を取り戻すためザポリージャの最前線で戦うことだった。数日に一度、ロシア軍の陣地を襲撃し、1つずつ奪っていく任務が与えられた。
そこは第一次世界大戦さながらの塹壕戦であり、深さ2メートル、幅1メートルほどの塹壕を掘り、その中に兵士数人で籠城し、至近距離でロシア兵と撃ち合った。...
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今回のNHKスペシャルは、テレビカメラマンだったウクライナ兵のジーニャ自身がスマートフォンや小型カメラを使って撮影した実際の戦場の様子を放映した。映像には徐々に追い詰められていく彼らの姿が記録されていた。
ジーニャの任務は、ロシア軍に不法に占領されたウクライナの領土を取り戻すためザポリージャの最前線で戦うことだった。数日に一度、ロシア軍の陣地を襲撃し、1つずつ奪っていく任務が与えられた。
そこは第一次世界大戦さながらの塹壕戦であり、深さ2メートル、幅1メートルほどの塹壕を掘り、その中に兵士数人で籠城し、至近距離でロシア兵と撃ち合った。ジーニャは「これは殺人ではない。ゲームなんだ」と、何度も自分に言い聞かせ、必死に感情を抑え込んだ。
元ギタリスト・写真家のウクライナ兵・ジェイは「心臓が強く脈打つ感じだ。恐怖や不安が混ざり合い、アドレナリンが出てくる。どう説明したらよいかわからない」と語った。
また、元フィットネストレーナー・ドミトロは「我々はここで誰も殺していない。これは殺人ではない。殺し屋はロシア側の人間で、彼らが我々を殺しにきた。入隊した当初はどうして人を殺すことが可能なのかと思っていたが、その後はどうやって生きていけばいいのだろうとなった。頭の中にはカーテンのような壁がある」と語った。
ジーニャは中隊長に「こんな経験はもうしたくない」と言った。こうした極限状態の連続が市民を兵士へと変えていく。
ジーニャは塹壕を直撃した砲弾で負傷し、一命は取り留めたが、左腕の神経を損傷し、麻痺が残った。
ジーニャは「今は戦争に行きたい人がほとんどいないことはわかっている。市民に戦争に行ってほしいとは思わない。よいことなど何もない。でも、それ以外の方法がない。私は戦争についてこれ以上話をしたくない」と語った。
ウクライナ侵攻から2年、ロシアは兵力を増強し、更なる占領地の拡大を目指している。プーチン大統領は「我々は特別軍事作戦」を諦めるつもりはない」と語った。
欧米諸国から提供された最新鋭の戦車や装甲車はロシア軍の地雷の餌食となった。装甲車を脱出したジェイとドミトロはロシア軍の激しい攻撃にさらされた。
ジェイはPTSDと診断され、キーウに戻ったものの、再び志願して前線で戦うつもりだ。キーウの病院で治療を受けているジーニャも回復すれば再び戦場に向かう可能性がある。現在、ウクライナ軍の反転攻勢は失速し、守りに転じている。きょうも市民は兵士となって戦場へ向かう。
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