11月6日放送、「植物からのメッセージ~地球を彩る驚異の世界~」
植物生理学/埼玉大学・豊田正嗣は植物が動物のように感じているという驚きの研究成果を発表した。高感度実体蛍光顕微鏡を使い、「一匹の虫に葉っぱをかじられた時、植物に何が起きるのか」を世界で初めて映像で捉えることに成功した。
植物は虫に食べられると傷ついた細胞からグルタミン酸という物質を放出する。この物質を葉の細胞が受け取ることで信号を伝えるカルシウムイオンが発生。その信号が細胞から細胞へ伝わっていき、信号を受け取った葉に毒物質が作られ虫が来ないように遠ざける。...
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植物生理学/埼玉大学・豊田正嗣は植物が動物のように感じているという驚きの研究成果を発表した。高感度実体蛍光顕微鏡を使い、「一匹の虫に葉っぱをかじられた時、植物に何が起きるのか」を世界で初めて映像で捉えることに成功した。
植物は虫に食べられると傷ついた細胞からグルタミン酸という物質を放出する。この物質を葉の細胞が受け取ることで信号を伝えるカルシウムイオンが発生。その信号が細胞から細胞へ伝わっていき、信号を受け取った葉に毒物質が作られ虫が来ないように遠ざける。
実は人間の体の中でもグルタミン酸は神経をつなぐ情報伝達の働きをしている。つまり植物には人間の体内における情報伝達と似た仕組みが存在していることになる。植物は葉をかじる音、虫の唾液に含まれる化学成分などで敵の姿を捉え、相手に応じて攻撃に使う毒の種類や量を変えていることが分かってきた。
植物は葉に落ちる雨粒一粒、一粒の圧力を鋭敏に感じている。雨粒にはカビや細菌などの病原体が含まれる場合があるため、雨に気付いた葉は感染から身を守るため、いち早く抗菌物質を作り出す準備を始める。音、温度、重力、化学物質など周りの変化を感じ取るための植物のセンサーは20を超えるともいわれている。
化学生態学/東フィンランド大学・ジェームスブランドは、植物のある不思議な現象に着目した。森の中で一部の木だけが虫によく食べられ、なぜか周りの木は食べられない現象である。この現象を調べるため、アオムシのいる植物と、いない植物を並べて特殊な顕微鏡で観察してみたところ、葉をかじられると植物はそれを察知して毒を作り出す防御反応を始めたことがわかった。
虫に触れられてもいない植物がなぜ防御反応を起こしたのか。食べられた木からは10種類以上もの物質が発せられていた。この特有の物質の組み合わせこそが植物が発するメッセージである。
「食べられた」というメッセージを発する物質を、食べられていない葉が受け取ると防御反応を起こす遺伝子が働きだすのである。最新の研究で植物の発するメッセージには他にもさまざまな種類があることが分かってきた。
テントウムシはなぜ広大なフィールドの中で僅か数ミリの小さなヤナギルリハムシの幼虫を見つけることができるのか。これを調べるために、化学生態学/京都大学・高林純示たちはヤナギルリハムシの幼虫に食べられているというメッセージ物質を植物が発し、風に乗って飛んできたこのメッセージをカメノコテントウが受け取っていたことを突き止めた。
カメノコテントウは空気中に漂うメッセージを伝える物質を触角で受け取り、この信号は即座に脳へと送られ、触角葉という部位にキャッチされるのである。植物は植物以外の生き物にもメッセージを送っているのである。
微量成分を解析する技術の進歩によって、こうしたコミュニケーションの中身が次第に明らかになり始めている。大自然の中で虫や鳥は独力で食べ物を見つけているのではない。人間の知らない膨大なコミュニケーションが地球には存在している。
今から5億年前の地球は、陸地は砂と石がどこまでも広がる不毛の大地だった。海から上陸を果たしたのが植物の祖先である。陸というフロンティアに乗り出した植物は陸上を覆い尽くした。恐竜がいた白亜紀に、花粉が地球を一変させる大革命を引き起こし、陸上生物の種の数を劇的に増加させた。
僅か3ミリ程度の花の誕生こそが地球を一変させた大革命の始まりであった。「花粉があるよ」という花が発し始めたメッセージで自ら昆虫を呼び寄せることができるようになった。花粉を与える代わりに花粉を運んでもらう。植物は昆虫との画期的な関係性を花からのメッセージによって実現することができた。
これをきっかけに生き物たちの進化が一気に加速した。ある植物が特殊な形に進化すると虫もそれに合わせるかのようにして形を変えた。ある植物は虫がほかに行ってしまわないよう華やかな色を競い、昆虫は確実に花にたどりつくための飛翔能力を進化させた。
互いが互いを進化させる「共進化」と呼ばれる進化の応酬が起こった。その後、花や草木に集まる虫を食べる哺乳類が多様化し、花からできる栄養豊富な果実は霊長類の祖先の進化も加速させた。
こうした中、復元生態学/アルバータ大学・ジャスティンカーストたちは、植物が数億年をかけて築き上げたもう一つの驚くべき世界を明らかにした。それは森の地下に広がる木と木をつなぐ菌糸の巨大なネットワークの存在である。菌とはキノコを作り出す地下の微生物を指している。
菌糸の地下ネットワークの発見によって今、長年の科学の謎が解明されようとしている。
植物生理生態学/ワイツマン科学研究所・タミルクラインはそのネットワークに驚くべき働きがあることを発見した。大きな木々の下で日陰の小さな木が生きながらえていた理由は地下の菌糸ネットワークから必要な養分を得ていたことがわかったのである。
暗い森の陰でか弱き命は少しずつ成長を果たすことができる。常緑樹と落葉樹の間でも双方向に養分をやり取りしている実態が確かめられつつある。
夏に光合成を活発に行う落葉樹は近くの常緑樹へ養分を分け与え、秋になると今度は常緑樹が葉を失った落葉樹へ養分を送る。植物たちはお互いの厳しい季節を支え合うかのように分かち合って生きている。森の地下に広がる支え合いの世界こそが地球を覆い尽くす陸の王者植物が大事に守り抜いてきた生き方だったといえる。
今、研究者たちは世界各地の森に巨大な観測タワーを設置し、森から放出される植物のメッセージを伝える物質を365日モニタリングしている。その結果、今、環境汚染によって植物のコミュニケーションに異変が起きていることがわかってきた。排ガスなどから出来るオゾンが、植物が放出したメッセージを分解してしまうことも明らかになってきた。
肝心なメッセージが届かなくなると周りの植物への警報が効かなくなったり、花粉を集めるハチを呼べなくなったりする可能性がある。
森の地下ネットワークの働きを明らかにした復元生態学/アルバータ大学・ジャスティンカーストは「森林破壊が地下のネットワークに甚大な影響を及ぼし、森の再生を難しくしている。これまで生態系に恩恵をもたらしていたはずの地下のネットワークが働かなくなり、若い木が育たなくなってしまっている。われわれは自然に対してもっと謙虚であるべきで、人間と自然は別々のものではなく、本来ひとつのものであるはずだ」と警鐘」を鳴らしている。
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10月30日放送、「岐路に立つ“民主主義”-権威主義拡大はなぜ~」
東西冷戦の終結から30年余り、欧米が掲げる自由民主主義は最も優れた政治形態だと信じられ、平和と繁栄をもたらすシステムだとして世界の多くの国が民主主義に移行したが、2010年前後にはその増え方は頭打ちになり、その後減少に転じた。
2000年ごろから旧共産圏の国々で始まったカラー革命、2010年から北アフリカや中東に広がったアラブの春。これらの国々では一度は民主化の動きが広がったが、その多くで民主主義は定着せず、今では強権的な指導者も現れている。...
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東西冷戦の終結から30年余り、欧米が掲げる自由民主主義は最も優れた政治形態だと信じられ、平和と繁栄をもたらすシステムだとして世界の多くの国が民主主義に移行したが、2010年前後にはその増え方は頭打ちになり、その後減少に転じた。
2000年ごろから旧共産圏の国々で始まったカラー革命、2010年から北アフリカや中東に広がったアラブの春。これらの国々では一度は民主化の動きが広がったが、その多くで民主主義は定着せず、今では強権的な指導者も現れている。現在、世界では自由で民主的とされているのが60の国や地域なのに対し、こうした基準を満たさず、非民主的だとされる国と地域は119に及んでいる。
背景にはイラク戦争の泥沼化やリーマンショックなどを経て、米国が求心力を失う一方、中国をはじめ、権威主義的な国が台頭したことなどがある。追い打ちをかけたのが権威主義的な指導者によって引き起こされた戦争である。民主主義の理想や価値観は、かつてない試練にさらされている。
米国と共に民主主義の旗振り役を務めてきたEU(ヨーロッパ連合)は、2度の世界大戦の反省から、「二度と戦争を繰り返さない」という決意の下、1993年に発足し、27か国まで拡大してきた。共通の理念は、「法の支配」や「基本的人権の尊重」などを柱とする民主主義の順守である。しかし、その足元が今年2月に起きた、ロシアのウクライナ侵攻によって大きく揺らいでいる。
ウクライナ戦争において、対ロシアの最前線になってきたのがEU加盟国のポーランドであるが、今、ポーランドとEUの関係が悪化している。ウクライナと国境を接するポーランドはこれまでに690万人を超える避難者を受け入れ、ロシアへの経済制裁を率先して行うなど、民主主義陣営の砦となってきた。
その結果、避難者の受け入れなどで国の財政状況が悪化している。経済支援を要請したポーランドに対し、EUは「EUの定める民主主義の基準を満たさないといけない」という厳しいルールを突き付けた。
実はEUはポーランドに対しわだかまりを持っている。それは2015年にまでさかのぼる。EUが人道上の理由で中東やアフリカからの移民や難民を分担して受け入れるよう求めたところ、ポーランド政府が激しく抵抗したのである。
2017年にはポーランド政府が司法改革の名の下で(EUに介入させないよう)最高裁判所の人事にまで介入した。これに対しEU各国からは「これは民主主義の根幹を成す法の支配を脅かすものだ」との厳しい非難の声が上がり、EUは厳しい条件をポーランドに突き付けざるを得なかった。
EUに対する反発姿勢を強めたポーランド・モラウィエツキ首相はEU議会の演説で「EUが暴挙に出るのなら、私たちは黙っていない。経済的な罰則を持ち出して、脅迫するなど到底受け入れられない」とEU・フォンデアライエン委員長の目の前で怒りを爆発させた。
V-Dem研究所・スタファンリンドバーグ所長は「EUが自らに向けられた批判と向き合わない限り、ポーランドのように不信感を強める国が増えるだろう」と警鐘を鳴らしている。世論調査でも国民のおよそ半数がEUの姿勢に納得できないと回答し、中には「EUはポーランドを破壊し、奴隷にしようとしている」という声さえあった。
EUの内部が民主主義の在り方を巡って揺らぐ中、中国やロシアに急接近する国も出てきている。ロシアの軍事侵攻以降、EU加盟国の中で異質な動きを見せているハンガリーである。
プーチン大統領とも個人的に親しい関係にあるハンガリー・オルバン首相はロシアのウクライナ侵攻以来、「ハンガリーは自国の利益を優先し、戦争には関わらない」という立場を繰り返し訴えてきた。
それを象徴するのがロシアに対する独自の路線で、ウクライナ情勢の緊張が高まっていた2月上旬、オルバン首相はいち早くモスクワを訪問。EU各国がロシアと距離を取る中で、天然ガスの安定供給を取り付け、結果的にこれがEUの足並みを大きく乱すことになった。しかし、こうしたオルバン首相の姿勢を多くのハンガリー国民が支持しており、ハンガリーでは電気代も以前と変わらない値段である。
冷戦終結後の1998年、オルバン首相が当時最大の目標に掲げていたのはNATOやEUといった民主主義陣営の一員になることだった。大きな転機になったのが2008年のリーマンショックだった。米国で起きた未曽有の金融危機はヨーロッパにも波及し、EU域内の貿易に支えられていたハンガリー経済は大打撃を受け、失業率は10%を超えた。
この時、欧米の景気低迷を尻目に急速な経済成長を遂げたのが中国だった。それ以来、オルバン首相は「自由民主主義の価値観に縛られていては、国は豊かになれない」と考えるようになり、新たな構想「非自由民主主義」を打ち出した。
「非自由民主主義」は選挙制度を維持するものの、国を豊かにするには政権基盤の安定が大事だとして権威主義的な傾向を強めるものであった。その象徴がオルバン首相に批判的なメディアへの締め付けである。メディアの実態を調査しているNGOの分析によると、今や報道機関のおよそ8割が政権寄りのメディアとなっているという。
オルバン首相は中国に急接近し、中国の投資を呼び込んだ。中国のハイテク企業がハンガリー最先端の開発計画におよそ309億円を投資し、この計画を共に手がけることになった。これまで欧米の企業が度々試みたものの挫折してきた再開発計画であったが、実現すれば1000人が雇用され、年間1400億円余りの生産額を見込めるという。
一方で中国系の企業や大学が次々に誘致されることで中国の政治的な影響力が強まるのではないかという危機感が広がっており、ブダペスト16区の野党・バイダゾルタン議員は「オルバン政権が国民の多様な声に耳を傾けず、中国との関係強化を推し進めればハンガリーの民主主義がついえてしまうだろう」と危惧している。
民主主義の国々が岐路に立たされる中、勢いを増す中国。近年、中国は巨大経済圏構想・一帯一路などへの投資を通じてアジアやアフリカなどとも関係強化を進めている。その中にはカンボジアのように政権の腐敗や人権問題を理由に欧米の援助を受けられずにいた国も少なくない。こうした投資は経済の発展をもたらす一方で、中国の権威主義的な影響力が強めることになると批判されている。
中国の政府系シンクタンク中国社会科学院政治学研究所・張樹華所長は「中国共産党が自分たちの政治手法や価値観を各国に押しつけることはない」「欧米型の民主主義は確かに人類の発展に一定の貢献をしてきたが、それは人類の長い歴史の一部に過ぎず、定着したのも欧米の限られた国だけだ。欧米は自分の基準で相手をさばき世界を分断させている」と欧米型民主主義を批判した。
一方、民主主義研究の権威、米国・スタンフォード大学・ラリーダイアモンド教授は「近年、権威主義的な勢力が台頭し、それに同調する人々が増えているが、彼らも軍事政権や一党独裁を望んでいるわけではない。人々が民主主義の理念そのものを否定しているのではなく、真の価値を発揮してほしいと願っているのだ」と強調した。民主主義の真の価値とは市民が声を上げ権力を監視し、軌道修正させる力であり、人々の自由や人権を守る力であり、自由公正な選挙によって民主主義は優れたものになる。まずは参加することが重要である。
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10月26日放送、「プーチン政権と闘う女性たち」(BS世界のドキュメンタリー選・再放送)
2021年1月、ロシア各地で若者たちがデモを行ない、プーチン大統領の支配に抗議の声を上げた。「自分達の怒りの声を伝えたい」として、多くのロシア人がデモに参加した。抗議デモに参加するのは初めてというロシア人もいた。
反体制派指導者でプーチン最大の政敵・アレクセイナワリヌイは2020年に何者かに毒を盛られその後、刑務所に収監された。男性幹部のほとんどは亡命し、政権に対抗できる男性はいなくなった。...
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2021年1月、ロシア各地で若者たちがデモを行ない、プーチン大統領の支配に抗議の声を上げた。「自分達の怒りの声を伝えたい」として、多くのロシア人がデモに参加した。抗議デモに参加するのは初めてというロシア人もいた。
反体制派指導者でプーチン最大の政敵・アレクセイナワリヌイは2020年に何者かに毒を盛られその後、刑務所に収監された。男性幹部のほとんどは亡命し、政権に対抗できる男性はいなくなった。それでも残された女性たちは闘いを続けた。番組ではこうした女性たちを密着取材した。
2021年に行われた過去最大規模の抗議デモは20年以上にわたるプーチン大統領の支配に対して行われ、これによって勇気づけられる人も多かったという。デモの参加者の多くが「ナワリヌイを大統領に」と考えていた。
しかし、暴力を振るわれ身柄を拘束されるなどして、ロシア人による民主的なデモは実力行使で解散に追い込まれた。ナワリヌイの関連団体は全て過激派と見做され、非合法化されていった。
残された反体制派の若い女性・ヴィオレッタは政治家になって合法的に議会で闘うために選挙に立候補しようと試みたが、選挙ポスターを切られたり、言いがかりをつけられたり、必要数の署名を集めて選挙委員会に届けても、過激派を支持する組織と繋がりがあるという虚偽の理由をつけられて却下されるなど、ことごとくプーチン政権の妨害によって立候補できないようにされていった。
以前は罪をでっちあげられても執行猶予付きの判決を受ける程度だったが、過激派に認定された組織の関係者が選挙に立候補すること自体が禁じられるようになり状況が大きく変わったという。
他の女性たちも過激派だとか、テロを企てているとか、麻薬を所持しているとか、コロナウイルスを感染させているなどの虚偽の罪をでっち上げられて警察が動き、逮捕・収監されていった。
活動家グループ「プッシーライオット」のメンバーだったルシアと彼女の恋人・マーシャは抗議デモに向かう途中、新型コロナウイルスの感染を拡大させたとして、逮捕され刑事訴追された。当局は2人がナワリヌイの集会への参加を呼び掛けて、コロナウイルスをロシアに感染を広めようとしたと主張したという。ルシアは「それがロシアの司法制度というものよ」と吐き捨てるように言った。
彼女は当局がパンデミックを利用して反体制派を刑務所に全員入れてしまおうとしているという見方を示した。現在、自宅軟禁となり公判を待っている。
ロシアは病院を刑務所がわりに軟禁に利用し、モスクワでは「プッシーライオット」のメンバー7人を15日間、病院に拘留した。
ルシアの弁護人・マリアエイスモントは「プッシーライオットに関わる者は15日間、隔離という奇妙な法律が妥当と考える人がロシアには存在している」「反体制派とみられる人々への締め付けはますます厳しくなっている」と語った。
プーチン政権への服従を拒む女性たちは自分たちの抵抗が変革の種をまくのだと信じているが、その責任の重さに耐えきれなくなっていることも、また確かである。
活動家・イリーナは「連中はそれを望んでいるけれど、私はこの国を出たくない」と述べた。一方、ルシアは「例えプーチンが去ったとしても、何も変わらないことを一番恐れている。ひょっとしたらもっと悪くなるかもしれない」と語った。
政治家を志したヴィオレッタは「もう限界よ。心が折れてしまった。立ち直れない。彼らの手の届かないところで自分を立て直す必要がある」と絶望感を露にした。
2021年9月の下院総選挙で与党「統一ロシア」は議会の3分の2以上を獲得したが投票に不正があったとの分析もある。統一ロシア以外の政党もすべてロシア政府の承認を得ていた。ロシア政府は公正な選挙だったと主張している。在英ロシア大使館にコメントを求めたものの、返答はなかった。
(2021年英国=Hardcash Productions and The Economist Group co-production MMXX1制作)
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10月23日放送、「新・幕末史・戊辰戦争・狙われた日本~」
1853年、ペリー提督率いる黒船が来航し、日本は世界の渦に巻き込まれることになった。この難局に立ち向かった徳川幕府。1867年、徳川慶喜は大政奉還を行い、天皇に政権を返上するが薩摩長州を中心とする新政府と旧幕府勢力との間で戦いが起こり、この時点で英国は徳川を見限り、新政府を支持する方針を固めた。一方徳川は英国に並ぶ大国の一つフランスの支援を受けていた。強国同士のパワーゲームの中、1年5か月に及ぶ泥沼の内戦・戊辰戦争が始まった。...
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1853年、ペリー提督率いる黒船が来航し、日本は世界の渦に巻き込まれることになった。この難局に立ち向かった徳川幕府。1867年、徳川慶喜は大政奉還を行い、天皇に政権を返上するが薩摩長州を中心とする新政府と旧幕府勢力との間で戦いが起こり、この時点で英国は徳川を見限り、新政府を支持する方針を固めた。一方徳川は英国に並ぶ大国の一つフランスの支援を受けていた。強国同士のパワーゲームの中、1年5か月に及ぶ泥沼の内戦・戊辰戦争が始まった。
1868年1月27日、京都の南、鳥羽伏見で戊辰戦争における最初の戦いが始まった。これまで近代兵器を有する新政府軍が時代遅れの徳川旧幕府軍を圧倒したが、実は徳川幕府はフランスと手を結び、軍事顧問団を招き、最も近代化された軍隊を持っていた。旧幕府軍が使用したのはフランスで開発されたばかりの四斤山砲で、新政府軍・西郷隆盛は思わぬ苦戦を強いられた。この状況に当時、新政府への支持を打ち出そうとしていた英国は危機感を抱いた。
戊辰戦争勃発から間もない2月16日、駐日特命全権公使・ハリーパークスが主導し英国、フランス、米国、プロイセン、オランダ、イタリアの代表が集まった。この中には最新の大砲を搭載した開陽丸を幕府に提供したオランダなどフランスと同様、旧幕府と関係を密にする国も含まれていた。薩摩長州を中心とする新政府軍は国際的には反乱勢力とみなされていた。会議の中で、パークスは外国が内戦当事者に対し、軍事的な関与を行わないとする取り決め「局外中立」を各国に呼びかけた。この法律が適用されれば、旧幕府、新政府の双方に対し各国は軍事援助ができなくなる。
フランスは「局外中立」に対し異議を唱えたが、3日間の議論の末、パークスの意向が事態を動かした。パークスが持ち出したのは公使たちにとって最重要の使命である自国民の保護であった。当時、貿易が許されていた港は横浜や長崎など4か所で、現地の外国人の保護は従来幕府が責任を持っていたものの戊辰戦争の勃発によって開港地は新政府・旧幕府に分かれて支配されるため、一方を援助すれば反対の勢力が外国人の保護をやめてしまうおそれがあった。これを聞いた米国は賛成を表明し、他国もこれに追随した。
1868年2月、6か国は共同で「局外中立」を宣言し、戦局は大きく変わった。米国は最新の軍艦の引き渡しを凍結し、フランスも旧幕府軍に送っていた軍事顧問団を撤退させた。こうした情勢の中、前将軍・徳川慶喜は新政府への恭順を決意。1868年5月、江戸を無血開城した。これにより260年以上続いた徳川の時代は名実ともに終結した。江戸を手に入れた西郷隆盛たち新政府と英国が望む方向に進んだかのように見えたが、ここで戦局は一変した。東北や新潟の諸藩が奥羽越列藩同盟を立ち上げたのである。もともとは新政府と対立する会津庄内藩を守るための軍事同盟だったが、明治天皇につながる皇族を擁立し、強力な地方政権へと姿を変えた。新政府と奥羽越列藩同盟という2つの政権を巡り英国に後れをとっていたヨーロッパ各国も日本に向けて動き始めた。
のちのドイツ帝国であるプロイセンもそうした国のひとつであった。プロイセンは19世紀後半、強力な指導者・オットーフォンビスマルク首相の推し進めた鉄血政策(軍備増強)のもとでヨーロッパの強国として生まれ変わろうとしていた。周辺諸国との戦争に相次いで勝利し、ヨーロッパで領土を拡大していく中でプロイセンが目を向けたのが東アジアだった。
軍事を利用して日本に入り込みたいプロイセンだったが、「局外中立」がある以上、表立った軍事援助はできない。ここで武器商人たちが突破口としての役割を果たした。プロイセンはイタリアなどと共に新潟を箱館、横浜、兵庫、長崎に次ぐ貿易港として開かせ、その結果、新潟に武器ビジネスで一獲千金をもくろむ外国の商人たちが押し寄せた。列藩同盟も武器補給の拠点として新潟を重視し、各藩の主力部隊がその防衛に当たることになった。たった1人の商人だけでもライフル約5000丁に相当する金額の軍需物資を取り引きしていたが、その背景にあったのは3年前に終結した米国南北戦争であった。200万ともいわれる膨大な武器余りが発生し、これらの武器が戊辰戦争に流れ込んだのである。
こうした流れで戦場を一変するガトリング砲という破壊的な兵器がプロイセンの武器商人によって持ち込まれた。複数の砲身が回転し弾丸を連射できるようになっており、南北戦争で初めて実戦に使われた。当時、日本には少なくとも3門あったといわれており、そのうち2門は列藩同盟の手に渡った。海外からもたらされた武器によって戊辰戦争はかつて日本人が経験したことのないような近代戦になっていった。
実はプロイセンには蝦夷(北海道)を植民地化するという野望があった。駐日プロイセン代理公使・マックスフォンブラントは自ら2度も蝦夷調査を行い、アイヌの衣装などを持ち帰るなどしている。蝦夷植民地化計画のためにブラントは東北諸藩にも接近した。
プロイセンとつながる外国人たちは、戊辰戦争を機に東北に潜入し、武器取引などを通じて列藩同盟の信頼を勝ち取るようになっていた。長引く戦乱で会津藩と庄内藩は多額の軍資金を必要とするようになっていたが、プロイセンはそんな彼らに金を貸し付ける代償として蝦夷の権利を譲り受けようとしていた。
プロイセンのたくらみに対し新政府軍を後押しする英国が大きく立ちはだかった。このまま外国商人と東北諸藩の武器取引が続けば新政府の勝利は見通せなくなるとして、パークスの部下で英国の対日政策に大きな影響を与えていた駐日英国外交官・アーネストサトウは新政府に対して新潟での武器取引をやめさせる策を授けた。
これまで西郷隆盛たちは外国からの反発を恐れ、新潟港の封鎖に慎重だったが、英国は海上封鎖について国際法上認められた権利であり、他国の批判を恐れる必要はないと伝え、新政府軍は新潟港を封鎖、電撃的な上陸作戦を行った。新潟の守備に就いていた列藩同盟の主力部隊は壊滅し、11月6日には会津藩が降伏。プロイセンの蝦夷植民地化計画は、歴史の闇に消えることとなった。
蝦夷・函館沖海上で独自の抵抗を続けていた徳川の残存勢力、中でも旗艦の開陽丸はオランダで造られた世界屈指の攻撃力を誇る軍艦で、新政府の海軍力ではとても太刀打ちできなかった。こうした中で艦隊を率いる榎本武揚は独自に諸外国と交渉を始めた。
榎本の動きに強烈な危機感を抱いたのがハリーパークスで、榎本の背後にロシアを見据えていた。当時、ロシアが企てていたのが南下政策で、ユーラシア大陸各地で英国軍と衝突していた。戊辰戦争が勃発するとロシアの魔手は徐々に日本にも迫り始めた。
日本との国境が未確定だった樺太(サハリン)に住民を移住させロシア化に着手していた。英国が恐れたのはロシアと榎本が結び付き、蝦夷に南下してくることだった。一刻も早く戦争を終わらせ、日本に強力な統一国家を誕生させなければならないと考えていたパークスは切り札となる新型艦ストーンウォールを使えるようにするために1869年1月18日、外国代表の会議を開き「局外中立」を撤廃させた。これによって英国による新政府への支援が可能になり、6月、ストーンウォールを旗艦とする新政府艦隊が函館を攻撃し榎本艦隊を壊滅させ、英国の思惑どおり戊辰戦争は新政府軍の勝利に終わった。
幕末を機に国を開いた日本。1872年10月、日本は英国からの資本提供を引き出し、新橋~横浜間で鉄道を開通させた。これにより人やモノの流れが加速し、アジアでいち早く産業の近代化に成功した。鉄道と時を同じくして建てられた富岡製糸場はフランスの技術で築かれた。生産された高品質の絹は最大の輸出品となり、日本の経済成長を押し上げた。1889年には大日本帝国憲法が発布されたが、手本にしたのはドイツ・ビスマルクが作った憲法で、これ以降、日本は近代的な立憲君主制国家として歩み始めることとなった。
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2022年10月16日放送、「幕府vs列強・全面戦争の危機」
今から160年前の幕末日本。産業革命の時代、蒸気船が世界中の海を行き交い、グローバル化が急激に進む中、1853年ペリー提督率いる黒船が来航し、日本に開国を迫った。幕府は横浜、長崎などの港を開き英国、フランス、ロシア、オランダなどと通商条約を結んだ。中でも英国、ロシアは極東進出の野望を抱き、日本の領土を奪おうと画策していた。
19世紀、産業革命を主導した大英帝国は蒸気船を武器に海外に進出、植民地を広げ、世界の4分の1の地域を影響下に置いた。...
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今から160年前の幕末日本。産業革命の時代、蒸気船が世界中の海を行き交い、グローバル化が急激に進む中、1853年ペリー提督率いる黒船が来航し、日本に開国を迫った。幕府は横浜、長崎などの港を開き英国、フランス、ロシア、オランダなどと通商条約を結んだ。中でも英国、ロシアは極東進出の野望を抱き、日本の領土を奪おうと画策していた。
19世紀、産業革命を主導した大英帝国は蒸気船を武器に海外に進出、植民地を広げ、世界の4分の1の地域を影響下に置いた。今回外務省の機密文書が発掘され、英国が覇権を確立するために植民地と同じように日本を重視していたことが見えてきた。1840年アヘン戦争に勝利した英国は手に入れた中国市場をほかの列強から守るため、横浜に艦隊を駐留させ、にらみを利かせようとした。
1861年、英国の戦略はロシアによって狂わされた。世界有数の陸軍を持つロシアはユーラシア大陸の覇権を巡って英国と対立。ウクライナ南部クリミア半島において両国は激突したが、この戦いに敗れたロシアは新たな戦略として極東への進出を打ち出し、日本を足がかりに中国市場に食い込もうとした。その足掛かりとして中国に向かうルート上にあり、地政学上の重要拠点でもあった対馬に目をつけた。1861年2月、ロシア海軍の大型軍艦が対馬に現れた。船を修理するための一時避難だと主張し、いすわり続け、停泊は半年に及んだ。
ロシアの目的はこの地に軍事要塞を構築することだった。幕府の使節団として米国へ渡るなど豊富な経験を持つ外国奉行・小栗忠順は幕府の同意を得て英国を介入させることでロシアを追い払った。小栗が危惧したとおりこの先英国は日本への干渉を強めてゆく。
7つの海を支配した大英帝国に君臨していたのがヴィクトリア女王である。女王の王冠には1200個のダイヤモンドがちりばめられているが、これは植民地からもたらされる富の象徴であった。世界の覇権を手に入れようとしていた英国の切り札となったのが高性能兵器アームストロング砲で、軍事史を塗り替える画期的な技術が取り入れられていた。
英国は国を挙げて強力な兵器・アームストロング砲を量産する一方で、秘密の軍事計画を進めていた。1864年に立案された「対日戦争計画」の中で、英国は日本との全面戦争を想定していた。戦争計画を練り上げたのは戦闘経験が豊富な陸海軍の指揮官だった。想定された第1の目標は海上封鎖。第2の目標が天皇の御所がある京都の制圧。第3の目標が江戸城への攻撃だった。この計画の狙いはほかの列強の先手を取り、日本を自らの陣営に組み込むことであった。
対日戦シミュレーションを重ねる英国に戦争の口実を与えたのが1863年開国に反対する長州藩の攘夷派が起こした事件だった。攘夷派は外国商船を砲撃し、これが国際問題に発展した。この機会を英国は見逃さず、1864年、17隻から成る大艦隊を率いた英国は長州に攻め込み、アームストロング砲で一斉攻撃を仕掛けた。僅か2時間で長州軍の砲台を占拠してしまった。戦火の拡大を恐れた幕府は長州藩に代わって巨額の賠償金を支払う約束をするが、英国の対日強硬論は消えず、戦争の火種は依然としてくすぶったままであった。
実は小栗忠順たち幕臣は英国の動きを友好国オランダの諜報活動によって早くから予期していた。幕府はオランダの協力を得て海軍力の増強に乗り出した。切り札となった軍艦開陽丸には最新鋭の大砲クルップ砲が搭載され、オランダから指導者を招き、軍事訓練も強化し、富国強兵を推し進め近代的な海軍を作り上げた。幕府の軍備増強の情報を英国はつかみ、日本との戦争は英国の財政にとって負担が大きすぎるとの理由で放棄された。
1866年に始まった幕長戦争は幕府軍と反幕府勢力を率いる長州軍が現在の山口県で激突した。これまで国内の勢力争いと思われてきたが、長州藩はかつて下関戦争で戦った英国と手を結び、坂本龍馬などの協力を得て英国系の巨大商社ジャーディンマセソン商会経由で新式の武器を輸入していた。これらの武器は米国史上最大の内戦だった南北戦争が終結し行き場を失ったものであった。英国の武器商人たちは新たな市場として日本に目をつけたのである。
幕府軍は10万を超える大兵力を投入し、数に勝る幕府軍は長州を4方向から包囲。長州軍の重要拠点がある下関には主力艦隊を送り込んで攻め落とす計画だった。
近代的な海軍を擁し、圧倒的優位のはずの幕府軍だったが、英国が戦局に介入してくるという想定外の事態が起きた。防御が手薄になった幕府本陣には長州軍の主力・奇兵隊が上陸に成功した。
窮地に立たされた幕府はこのあと起死回生の策としてヨーロッパの大国フランスに接近。幕府はパリで開かれた万国博覧会に参加し、フランスの優れた造船技術や軍事技術を学び英国に対抗しようとした。1867年、フランスの軍事顧問団の指導の下で幕府の精鋭部隊が結成されると同時に武器の輸入計画も進んでいた。そうした中、英国の覇権を脅かすもう一つの事件が起きていた。
ロシアが樺太に上陸、大量の兵士を送り込み、実効支配しようとしたのである。ロシアの攻勢は英国の対日政策に思わぬ影響を与えた。パークスは日本に強力な統一政権が誕生すればロシアに狙われることもなくなるだろうと考え、日本の政治体制の刷新を期待していた。パークスは幕府がフランスから武器を買い付けるための資金源である銀行に圧力をかけさせたが、これによってフランスとの武器購入計画が頓挫した幕府は反幕府勢力を抑え切れなくなり、将軍徳川慶喜は大政奉還を決断した。
1868年1月、徳川慶喜と駐日特命全権公使・ハリーパークスの会談の後、慶喜は新政府軍との戦いに敗れ、政治の舞台から身を引くこととなった。幕臣・小栗忠順の戦いはここで幕を下ろした。
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