混迷の世紀・台頭する“第3極”トルコ“全方位外交”の光と影~(8/20放送)
“東西文明の十字路”と呼ばれ、地政学的にもヨーロッパとアジアをつなぐ接点となってきたトルコ。特に、ロシアによるウクライナ侵攻以降は、NATO加盟国としてウクライナを支援する一方で、ロシアとの関係も維持する“全方位外交”を展開し、ウクライナ戦争における仲介者として存在感を増している。対立する両陣営と接点を持つ独自の外交戦略の背景について、エルドアン政権外交安全保障アドバイザー・アキフキレチジ氏は「長年東西両陣営との関係を模索し続けてきた歴史がある」と語る。...
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“東西文明の十字路”と呼ばれ、地政学的にもヨーロッパとアジアをつなぐ接点となってきたトルコ。特に、ロシアによるウクライナ侵攻以降は、NATO加盟国としてウクライナを支援する一方で、ロシアとの関係も維持する“全方位外交”を展開し、ウクライナ戦争における仲介者として存在感を増している。対立する両陣営と接点を持つ独自の外交戦略の背景について、エルドアン政権外交安全保障アドバイザー・アキフキレチジ氏は「長年東西両陣営との関係を模索し続けてきた歴史がある」と語る。
欧米列強によってオスマン帝国が分割されたあと、ちょうど今から100年前の1923年に建国されたトルコ共和国の初代大統領・ケマルアタチュルクは政治と宗教を厳格に分ける世俗主義を掲げ、欧米の価値観を取り入れることによって近代化を目指した。
1950年代の朝鮮戦争では米国が主導する国連軍にトルコは1万5000人ともいわれる兵士を派遣し、その貢献が認められ1952年にはNATOへの加盟が正式に認められた。更にイスラム圏の国として初めてEUへの加盟を目指すことになった。当時、与党党首だったエルドアンはトルコがEU加盟の基準を満たすヨーロッパの一員だとアピールし死刑制度を廃止するなどの法整備を約束したが、イスラム過激派の存在を理由にフランスなどがトルコのEU入りに難色を示したため、加盟交渉は暗礁に乗り上げた。
これ以来、トルコはロシア、中国や中東アフリカ、南米とも関係を深める全方位外交に舵を切った。こうした戦略への転換をエルドアンと共に主導したアブドゥッラーギュル前大統領は「私たちは西側ばかりに目を向け、東側の世界をないがしろにしてきた。これが怠慢な姿勢だったと気が付き全方位で関係を強化する方針を打ち出したのだ」と語った。
ロシアによるウクライナ侵攻が始まると、国際社会がトルコの全方位外交に期待を寄せる局面が早速訪れた。舞台となったのは緊張が高まる黒海。きっかけはウクライナの港がロシア軍に封鎖され、ウクライナ産の農産物が海路で輸出できなくなったことだった。この時、国連と共に動いたのが両国と関係を持つエルドアン大統領だった。
ロシアとウクライナの間を国連と共にトルコが仲介し、ウクライナ産の農産物を積んだ船の航行を妨げないことで合意が成立した。国連・グテーレス事務総長は「トルコの貢献がなければ合意は成立しなかった」と高く評価。この合意によってウクライナから世界へ運ばれた農産物はこれまでに3200万トン以上。食料不足に陥っていた中東やアフリカなどの国々に届けられた。
全方位外交を展開するトルコはその先に何を目指しているのかについて、地政学が専門のジョージフリードマンは「トルコは分断が深まる世界の仲介者となることで国際的な地位を高めようとしている」と分析した。
実はウクライナ侵攻前までヨーロッパとアジアをつなぐ物流ルートはロシアを経由する「北回廊」が中心だったが、欧米による経済制裁の影響で使えなくなったため、トルコが推し進める一大物流ルート「中央回廊」の重要性が一気に増した。中央回廊の拠点の一つカザフスタン西部のアクタウにはトルコ企業の進出も相次ぎ、リゾートホテルを建設するなど、今開発が急ピッチで進められている。
100年前、トルコが建国される以前のオスマン帝国はアジアからヨーロッパ、北アフリカにまたがる広大な交易国家として繁栄したがエルドアン大統領はこのオスマン帝国の復活であるネオオスマン戦略をもくろんでいる。
エルドアン大統領はそのための布石を着々と打ち、去年、中央回廊が通るカザフスタンなど5か国の首脳などと会談。政治的にも経済的にも連携を強めようと呼びかけた。これらの国々はかつて旧ソビエトの一部でその後もロシアが自らの勢力圏と見なしてきたが、ウクライナ侵攻以降、ロシアと距離を置く国も出る中でトルコが影響力を強めている。中央回廊の先にあるのが中国で、トルコは「中央回廊」を通じて中国との間でも東西の物流を拡大させようとしている。そのためにエルドアン大統領は中国などが主導する上海協力機構への加盟にも意欲を示し、習近平国家主席に接近しようとしている。
華々しい活躍を見せるトルコだが、その一方で“強権的”ともいわれるエルドアン大統領の姿勢が、欧米が築き上げてきた秩序や価値観との間で摩擦を生んでいる。そもそもこの20年間、エルドアン大統領は自らに批判的なメディアを抑え込むなど欧米各国からは強権的だとの批判の声も出ていた。
エルドアン政権からの弾圧を避けるためにトルコからスウェーデンに逃れてきた新聞社の元編集長・ビュレントケネシュは7年前のエルドアン政権の転覆をねらったクーデター未遂事件に関係あるとみられ、トルコ当局から追われる身となっている。
ロシアの脅威に対抗するため、スウェーデンはフィンランドと共にNATOへの加盟を申請、米国をはじめほぼ全ての加盟国が支持したものの、唯一難色を示したのがエルドアン大統領だった。加盟の条件としてスウェーデンに求めたのがビュレントケネシュの引き渡しだった。スウェーデン国内で激論が交わされた結果、スウェーデンはケネシュの引き渡しは拒否するが、その代わりトルコに配慮し憲法を改正して新たな法律を作り、テロへの関与が疑われる人物の在留許可を取り消すと表明した。この結果に満足したのかエルドアン大統領はNATOの首脳会議を前にスウェーデンの加盟を議会にはかると初めて表明した。
エルドアン大統領が見せる強権的姿勢の2つ目がクルド民族に対する姿勢である。米国がシリアにおいてクルド系の武装勢力を支援したことに激しく反発。その後、独自の判断でアサド政権を支持するロシアやイランと和平協議を始め、米国との足並みが乱れていくきっかけを作った。さらにシリア国内のクルド人武装勢力への越境攻撃に踏み切り、欧米各国から強い非難を浴びることとなった。
今、トルコと欧米との新たな火種とも見られているのが国産兵器の開発と各国への輸出である。ウクライナを支えたトルコ製の軍事用ドローン・バイラクタルTB2の各国への輸出を加速させ、これまでに中東やアフリカなど30か国以上に輸出した。その中には欧米が武器の輸出を禁じている国、西アフリカ・マリなどが含まれている。
マリではクーデターを決行した軍が権力を掌握し、これに対し欧米各国は制裁を科した。そのマリに今年、10機以上のトルコ製のドローンが売却された。更に今、新たに開発が進んでいるのが最新鋭のステルス戦闘機「カーン」。米国のF35にも匹敵する能力を目指し、各国への輸出も視野に入れている。トルコの防衛産業庁・イスマイルデミル前長官は兵器の開発や輸出を通じてさまざまな国への影響力を強めていきたいとしている。
米国の国際政治学者でオバマ政権の大統領特別補佐官を務めたこともあるチャールズカプチャンは「エルドアン大統領はネオオスマン戦略と呼ぶべき方針を追求している。今後、トルコは大国と渡り合い、より複雑化する国際情勢を左右する重要な存在になるだろう」とトルコの今後を予測した。
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原子爆弾・秘録~謎の商人とウラン争奪戦~(8/6放送)
ベルギーの国立公文書館に眠っていた3万ページに及ぶ未公開資料を基に広島の原爆投下の裏側で暗躍した闇商人の実態にNHK取材班が迫った。この貴重な資料はベルギー最大の財閥系鉱山会社ユニオンミニエールがこれまで機密扱いとしてきた幹部だったエドガーサンジェによる資料を特別に公開したものである。ウランの取り引きを記録した覚書や手書きのメモ、更に晩年に書き残していた手記などが含まれている。
サンジェがウランと出会ったのは原爆が開発される実に20年以上も前であった。...
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ベルギーの国立公文書館に眠っていた3万ページに及ぶ未公開資料を基に広島の原爆投下の裏側で暗躍した闇商人の実態にNHK取材班が迫った。この貴重な資料はベルギー最大の財閥系鉱山会社ユニオンミニエールがこれまで機密扱いとしてきた幹部だったエドガーサンジェによる資料を特別に公開したものである。ウランの取り引きを記録した覚書や手書きのメモ、更に晩年に書き残していた手記などが含まれている。
サンジェがウランと出会ったのは原爆が開発される実に20年以上も前であった。当時40代だったサンジェは当時、ベルギーの植民地・コンゴに派遣され、銅の生産を任されていた。そこで偶然出会ったのが異常なほど純度の高いウラン鉱石だった。当時は用途は見つからず、大量の在庫を抱えたまま1937年に一時閉山せざるをえなくなった。
ところが、1938年末にドイツ人科学者がウランの核分裂反応見つけ出し、運命の転機が訪れた。ウランの中に僅か0.7%しか含まれていないウラン235に中性子をぶつけると原子核が2つに分裂。ウラン235を濃縮するとこの反応を連鎖的に引き起こすことが可能になり、天文学的な力を作り出せることが分かったのである。
この後、突然サンジェのもとに欧州の列強から問い合わせが相次ぐことになった。英国でサンジェは英国人科学者・ヘンリーティザードと面会し、用途を明かされないままコンゴのウランを提供してほしいと持ちかけられた。サンジェが回答を濁すと別れ際、「ウランが敵の手に渡ればあなたの国や私の国にとって大惨事になるかもしれない」とつぶやいたという。核分裂が発見されたドイツでは当時、ヒトラー率いるナチスが台頭し、ドイツが核による巨大なエネルギーを手にするのではないかと恐れられていたのである。
この数日後、手記にはフランスでも科学者と面会したことが記されている。物理学者・ジョリオキュリーから「ウランを爆弾の研究に使いたい」と売却を求められた。サンジェはこの時はじめて自分が抱えた大量のウランの在庫の価値に気がつくことになった。
1939年9月、ドイツがポーランドに侵攻し、第二次世界大戦が勃発。ドイツはその後次々と戦線を拡大し、1940年5月にはオランダやベルギーへの侵攻を開始。危機感を感じたサンジェはコンゴに保管していた在庫のウラン約1200トンを会社に無断で米国へと運び出した。ウランはニューヨークの中心から10キロほどにあるスタテン島に持ち込まれ、倉庫で2000本のドラム缶に入れられて保管された。
米国ではドイツの核開発に対抗するため、ウランの活用が本格的に検討され始めていた。サンジェはニューヨークに事務所を開設し、そこで人脈を作りながらウランの売り込みを画策していた。1年後、日本の真珠湾攻撃によって米国が第二次世界大戦に参戦することを決め事態が大きく動き始めた。米国の参戦をビジネスチャンスと捉えたサンジェは積極的に米国に働きかけ、確認できただけで5回に上る売り込みを行っていた。
1942年9月18日、原爆開発の極秘プロジェクト「マンハッタン計画」の総責任者・レスリーグローブスは側近のケネスニコルズをサンジエのもとに派遣した。その場にあった黄色い紙に2人で交わした即席の契約書には米国に持ち込んだウラン1200トンに加え、まだコンゴに保管されている残りの在庫ウランも全て米国が買い取ることが記されていた。
サンジェは高値で取り引きされる軍事利用に執拗なこだわりを見せたという。高純度のウランを独占することに成功した米国は秘密都市オークリッジを建設し、ウラン235の濃度を高める濃縮作業に着手。同時に米国は欧州に諜報員を派遣。ドイツの原爆開発の進捗を調べていたが、その結果、ドイツはミサイルの開発に精力を注ぐ一方で原爆については資金難などから開発を断念していたことが明らかになってきた。
自分たちだけが原爆を手にすることができると確信し始めた米国はこのころから核の力を独占することで戦後の世界を主導しようと考え始めていた。1944年9月、米国はサンジエの仲介の下、同盟国の英国、ベルギーとユニオンミニエールが閉山していたウラン鉱山を再開発。それを米国と英国が将来にわたって独占的に購入するという秘密協定を結んだ。
米国は開発中だった原爆の実戦使用を検討し始めるが、標的とされたのが当時、玉砕も辞さず徹底抗戦を続けていた日本だった。米国は一貫して原爆投下は戦争を早期に終わらせるためだったとしてきたが、専門家は核を独占した上でその威力を見せつけることが重要だったと指摘。米国のウラン独占はその後の世界を運命づけた。
唯一の核保有国となった米国はその後もコンゴ産ウランを使って新たな核実験を繰り返し、世界に力を誇示していった。サンジェの手記には欲望を加速させていく国家に対して一人の商人が抱き始めた恐怖がつづられていた。これに待ったをかけたのがソビエト連邦で、米国の原爆の脅威を目の当たりにし、敗戦国であるドイツの設備や人材も総動員して核開発を推し進め、米国の独占を突き崩した。1949年ソビエトは初の核実験に成功し、核による軍拡競争の口火が切られた。
大国の駆け引きが激しくなる中、サンジェは米国の監視下での生活を余儀なくされていた。米国政府高官がサンジエに対し「廃鉱しても構わないから、増産を急いでほしい」と圧力をかけてきた。時のトルーマン大統領から直接要求されたことも記されていた。こうした要求にサンジェは強い不満を抱くようになる。それでも譲らなかった米国の要求に応えるため、コンゴのウラン鉱山では過酷な労働が強いられていた。
鉱山周辺には1万人を超す労働者が暮らしていたが、強い放射線を発するウラン鉱山の中での人力作業で多くの人が体調不良を訴えていた。コンゴがベルギーから独立する1960年までサンジエが米国と英国に渡したウランは広島原爆を3500発作り出せる量に上ったという。その間、米国はほかにもウランの入手先を増やしながら194回の核実験を繰り返した。ウランの取り引きで急成長を遂げた鉱山会社・ユニオンミニエールが1960年に公表した売り上げは年間2000億円近く。ヨーロッパ有数の鉱山会社へと成長していた。その功績が認められて、サンジェは名誉会長まで上り詰めた。
サンジェがウランの取り引きについて最後まで沈黙を貫いた理由について、サンジェの右腕だったルロワの孫・モニークドゥルエットが「自分から始まったすべての事柄がどれほど遠くに波及してしまったのか考えられずにはいられなかったはず。最初はただのビジネスマンだったのに、その後、起こったことは自分の領域を明らかに飛び越えてしまった。それこそが(彼らが)沈黙していた理由かもしれない」と語った。
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台頭する“第3極”インドの衝撃を追う~(7/16放送)
インドのIT産業は1990年代、欧米企業にソフトウエアやシステムを納品する下請けとして始まった。インドの若者たちは熾烈な競争を勝ち抜き、米国など海外企業への就職を目指すようになった。こうしたバックグラウンドを持つインド政府が2010年からデジタル政策を開始したことが今日のインドの成長の基盤になっている。
町の至る所にある集会所のような建物では生年月日などの個人情報の登録に加え、瞳孔の周りの模様の虹彩や指紋の採取が行われている。...
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インドのIT産業は1990年代、欧米企業にソフトウエアやシステムを納品する下請けとして始まった。インドの若者たちは熾烈な競争を勝ち抜き、米国など海外企業への就職を目指すようになった。こうしたバックグラウンドを持つインド政府が2010年からデジタル政策を開始したことが今日のインドの成長の基盤になっている。
町の至る所にある集会所のような建物では生年月日などの個人情報の登録に加え、瞳孔の周りの模様の虹彩や指紋の採取が行われている。生体情報は国民一人一人に割り当てられる個人IDにひも付けられる。虹彩や指紋の形が変わらなくなる5歳以上が対象。個人IDの導入と同じ時期に社会に広がったのがインターネットにつながるスマートフォンだった。インド政府は国民が個人IDに銀行口座をひも付けオンラインで決済できるシステムを構築し、システムを民間企業に開放した。企業は自らシステムを作らなくてもオンライン決済を使ったサービスを提供できるようになった。政府主導のシステムを土台にして国民の経済活動が行われるようになった。
露店での支払いもQRコード決済。銀行やATMがなくても指紋をかざせば現金を引き出せるという、このシステムが農村の人々の生活を大きく変えた。AIが組み込まれた農業用アプリを使い始めて3年、男性は収穫量が毎年2割のペースで増加し、収入も1.8倍になった。
これまで本人確認の書類を持たない人が多かった農村では個人IDの広がりによって本人確認が容易になり、誰もが銀行口座を持てるようになり、巨大な市場が生まれた。農業用のアプリを運営する企業のCEO・サティーシュヌカラはAIを活用したアプリでインド全土200万の農家に農薬などを販売しているが、直近の2年での売り上げは51倍に急成長した。
インドが個人IDを使った独自のシステムを整備した背景には米国の巨大IT企業への懸念があった。今から10年ほど前、米国の巨大IT企業が利用者の購買履歴や閲覧履歴などのデータを独占し、国家をしのぐ影響力を持とうとしていた。19世紀からおよそ100年にわたり英国の植民地支配を受け、搾取された歴史を持つインドは現代のデジタル空間でも同じような支配が起きかねないことを懸念し、自立したシステムの構築を急いで行った。
経済を活性化し、イノベーションの基盤ともなってきた個人IDの一方で、生体情報まで登録する個人IDにはプライバシーが侵害されるという批判の声も上がってきたが、政府はその後も法律を改正し、個人IDのシステムを継続した。
政府の閣僚として個人IDの導入を推進したインド固有識別番号庁初代長官・ナンダンニレカニは政府が国民の情報を必要以上に管理することはないとしている。批判や懸念の声もある中、デジタル政策を推し進め、成長を続けるインド・モディ首相は個人IDがもたらした成果を国際社会にアピールし続けている。
国内の人権問題を指摘されながらも大国と実利で結び付き、影響力を拡大するインドが今、けん引しようとしているのは、新興国や途上国から成り、今後急速な経済成長が見込まれている「グローバルサウス」と呼ばれる国々である。
シンクタンクの予測では2050年には米国や中国を大きく引き離すとみられている。今年1月、モディ首相は「グローバルサウス」の国々を集めたサミットを開き、我々が新たな国際秩序を築いていくと呼びかけた。グローバルサウスの中で一大勢力となっているアフリカで今、インドの存在感を高めているのがデジタル技術。
個人IDアフリカ会議(ケニア・ナイロビ)にはアフリカ各国から政府や企業の関係者が参加した。インドは技術者など15人を派遣し、個人IDやオンライン決済の利便性をアピールした。インドは今年、議長国を務めるG20でもデジタル会合を主催し、デジタルシステムを提供する覚書をシエラレオネなど4か国と交わした。
6月下旬、米国を訪れたモディ首相がそのまま向かったのが中東のエジプト。貿易や防衛分野での関係を強化する合意を交わした。7月、フィリピンでもインド式の個人IDの登録が行われていた。今、インドのシステムは「グローバルサウス」の11か国にまで広がっている。
第3極として台頭するインドの足元には今なお多くの矛盾も抱えているが、今回、NHKの取材で見えてきたのは中国とも異なる形でインドが躍進し国際秩序を左右するまでになっているという現実だった。我々は14億人の大国と向き合わずして明日を語ることはできない時代に生きている。
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ワグネル反乱・変貌するロシア軍~(7/2放送)
世界が衝撃を受けたロシアの民間軍事会社ワグネルの武装蜂起。代表・プリゴジンが反乱に踏み切るまでに一体何が起き、今後ウクライナ戦争はどのような方向に向かうのか。
武装反乱が起きた直後、ワグネルの戦闘員だった男性は、幹部から合流するよう命じられ「行かない場合は銃殺する」と脅されたという。しかし男性は既にワグネルのメンバーではないと主張しこの命令を拒否したという。
今回の反乱の背景には正規軍を率いるショイグやゲラシモフが、プリゴジンを過小評価していたことに対する強い不満がある。...
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世界が衝撃を受けたロシアの民間軍事会社ワグネルの武装蜂起。代表・プリゴジンが反乱に踏み切るまでに一体何が起き、今後ウクライナ戦争はどのような方向に向かうのか。
武装反乱が起きた直後、ワグネルの戦闘員だった男性は、幹部から合流するよう命じられ「行かない場合は銃殺する」と脅されたという。しかし男性は既にワグネルのメンバーではないと主張しこの命令を拒否したという。
今回の反乱の背景には正規軍を率いるショイグやゲラシモフが、プリゴジンを過小評価していたことに対する強い不満がある。プリゴジンはロシア中の刑務所から受刑者を集め、5万人ともいわれるワグネル戦闘員を組織し、ウクライナに投入し、捨て身の人海戦術を展開した。
その驚くべき手法は、まず15名ほどの戦闘員を一斉にウクライナ軍の陣地に突撃させる。その戦闘員が倒されると、今度は第二陣が武器を持たずに突撃し、倒された戦闘員の武器を拾い上げ攻撃を続ける。
第二陣が倒されると今度は第三陣、第四陣が続き、こうした攻撃がなんと10時間近くも繰り返されという。
今年1月、遂にワグネルはバフムト近郊の街を掌握し、徐々に前線を押し上げていった。その一方、戦果を焦ったショイグをトップとする正規軍はその南側で目立った戦果を上げられずにいた。だが、正規軍はバフムトの掌握について正規軍の砲兵部隊や航空部隊の支援もあったために達成できたと主張した。
ワグネルは、バフムト掌握の代償として戦闘員2万人を失った。十分な武器の供給を得られなかったプリゴジンは怒りを露わにし、ワグネル戦闘員の死体の前でショイグやゲラシモフを名指しで罵倒した動画をSNSに投稿した。
実はプリゴジンはショイグらに対抗しようと、半年ほど前から武装反乱の計画を練るようになっていたという。そして6月23日、遂に反乱を決行した。ワグネルの部隊は南部ロストフ州にある軍の司令部をたちまち占拠し、驚くべきことに軍や治安当局から阻まれることなくモスクワまで200kmの地点にまで進軍した。
その背後には軍の最高幹部の1人であるスロビキン上級大将などが事前に計画を把握し、協力していた疑いが浮上している。米国の駐ロシア大使を務めたこともある国家安全保障問題担当サリバン大統領補佐官は「(スロビキンが)反乱の計画を事前に知っていた可能性がある。それが軍の司令部の占拠を容易にさせたのかもしれない」と分析した。
結果的にはプリゴジンはおよそ24時間で部隊を引きあげ、反乱は収束に向かったが民間軍事組織の存在感を強く示したことになった。実はロシア軍の最前線ではワグネル以外にも数々の民間軍事会社や民兵組織が戦果を競っている。
現在、バフムト周辺で活動しているとみられるのはチェチェン共和国の首長・カディロフが率い3000人以上の戦闘員を擁するアフマト。南部ザポリージャやクリミアなどに配置されているコンボイはクリミアの首長を名乗るアクショノフが率い、戦闘員は8000人いるという。国際的な調査団体モルファーによると、現在ウクライナに投入されている民間軍事会社や民兵組織は26で、その多くが激しい戦闘が続くロシアの占領地域の前線に配置されている。これらの民間軍事会社はロシア政府から資金や武器を提供されているとみられる。
ロシア出身の軍事専門家で政権内部にも独自の人脈を持つユーリフョードロフによれば今、プーチン大統領は勝つための戦いから負けないための戦いに大きく戦術転換を図っているという。中国やイランの支援を受けつつ、長期戦に持ち込むことによってウクライナを消耗させ、有利な条件で停戦を迫ろうとしているとフョードロフは分析している。
ウクライナ戦争の今後に関して、東京大学先端科学技術研究センター・小泉悠専任講師は「この先、ロシア軍が大勝ちするというシナリオはなかなか難しいが、その一方で相手を出血させ傷つけ、いつまでもウクライナを紛争国家のままにしておく力はロシア軍にはまだ残っている。ダムの破壊や原発に対して何かをするというような、我々が知っている戦争のやり方とは異なるやり方も視野に入ってくると思う」と予測した。
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“戦いそして死んでいく”~沖縄戦・発掘された米国軍録音記録~(6/25放送)
20万人以上の命が失われ“地獄”と呼ばれた沖縄戦。兵士の声をラジオで米国民に届ける目的で、収録された膨大な音声が米国議会図書館国立視聴覚保全センターで発見された。これまで戦場の記録で知られているものは記録映像であるが、音声記録の存在はあまり知られてこなかった。今回発見された音声記録には最前線の戦況や、激しい戦闘直後の兵士の声が収録されている。ここから浮かび上がってくるのは日本軍のゲリラ戦に翻弄され、神経をすり減らし「狂気」に身をゆだねてゆく米軍兵士の痛々しい姿であった。...
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20万人以上の命が失われ“地獄”と呼ばれた沖縄戦。兵士の声をラジオで米国民に届ける目的で、収録された膨大な音声が米国議会図書館国立視聴覚保全センターで発見された。これまで戦場の記録で知られているものは記録映像であるが、音声記録の存在はあまり知られてこなかった。今回発見された音声記録には最前線の戦況や、激しい戦闘直後の兵士の声が収録されている。ここから浮かび上がってくるのは日本軍のゲリラ戦に翻弄され、神経をすり減らし「狂気」に身をゆだねてゆく米軍兵士の痛々しい姿であった。番組では音源を紹介しつつ、元兵士の消息を追い、戦場を「音」から捉え直す作業を試みている。
こうした音声記録の録音を担ったのは海兵隊に所属するラジオ通信兵であった。
沖縄県北部密林に覆われた山岳地帯本部半島。日本軍の飛行場がある伊江島を奪取するため、第6海兵師団の兵士たちは半島の制圧を目指していた。沖縄北部の密林を利用した日本軍のゲリラ作戦に初めて直面した米兵たちの声は恐怖に包まれていった。第6海兵師団元中尉は夜間に部隊の拠点で休んでいた時、突如、日本兵の銃撃に遭った。
印象的なのは通信兵が沖縄の人たちの衝撃的な死についてインタビューしていた記録である。偵察兵がある洞窟に足を踏み入れた時、見たとされるのが集団自決だった。読谷村史にも日本兵が住民たちに自決を呼びかけ、手榴弾で日本兵2人と住民14人が犠牲になったと記録されている。偵察兵は戦後もこの時見た光景に苦しみ続けた。第6海兵師団・シグカールソン元1等兵は「なぜそんなことをしたのか今でもわからない。私には理解できないことだった」と語った。
米兵は日本軍のゲリラ攻撃に苦しみ続け、住民たちの集団自決という自分たちの理解を超えた行動に心がむしばまれていった。アーネストスタンリー通信兵は「何と戦っているのかわからない。未知への恐怖が心のうちにある」と語った。沖縄の住民を保護する方針だった米軍は日本兵が住民を装っているという疑念を次第に募らせるようになっていた。
疑心暗鬼に陥った米兵たちの目には住民と兵士の区別がなくなっており、第6海兵師団のライフル兵の元1等兵は自らも住民を銃撃した経験があると明かした。録音記録には住民を保護する方針が揺らいでいく様子が残されていた。
沖縄は更に地獄の戦場と化し、米軍は日本軍のゲリラ戦に苦しみながら伊江島の飛行場を奪取し、北部一帯を制圧した。第6海兵師団は日本軍司令部がある首里を攻略しようとしていた部隊を援護するため、南部へ転戦することになった。
沖縄戦は2か月を超え、米軍は遂に日本軍司令部のある首里を制圧した。沖縄戦の事実上の勝敗はこの時点で決していたが、日本軍は最南端へと撤退しながらの持久戦を決断し、大勢の住民も日本軍とともに避難していた。
録音記録には鉄の暴風と呼ばれた米軍の砲撃音が記録されている。砲弾は日本兵と住民に区別なく降り注ぎガマや壕に立て籠もって抵抗を続ける日本軍を前に米兵たちの声は次第に狂気を帯びていった。
1945年6月23日、第32軍司令官・牛島満中将が自決。日本軍の組織的戦闘が終了したが、一部の日本兵は断続的な抵抗を続け戦いが完全に終わったのは9月7日のことだった。
1945年7月4日、沖縄戦の重要な局面を伝えてきた通信兵が最後の録音に当たっていた。上陸地の読谷村に造られた第6海兵師団の真新しい墓地。音声は献花の模様を伝えるものだった。
米軍の死者1万2500人、日本の軍人、軍属を含む沖縄県民の死者12万2000人。うち住民の犠牲は9万4000人。30時間の録音記録が伝えていたものは紛れもなく、あらゆる地獄を集めた戦場であった。
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