地球科学の最前線・天変地異の秘密に迫る~(BS1:2022年3月23日の再放送)
地球が誕生して46億年。その間、火山噴火、巨大地震、大型ハリケーンなど天変地異を繰り返してきた。天変地異はなぜ起こるのかについて科学者から様々な説が発表されている。
台風は地震の引き金となり、火山の噴火は海流を変える。さらには氷河の変化が火山活動を引き起こすことにつながっている。
まずは地震と台風の関係から見ていく。今、気候変動の影響による台風の大型化が懸念されているが、それらが地震の引き金になると主張する科学者がいる。...
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地球が誕生して46億年。その間、火山噴火、巨大地震、大型ハリケーンなど天変地異を繰り返してきた。天変地異はなぜ起こるのかについて科学者から様々な説が発表されている。
台風は地震の引き金となり、火山の噴火は海流を変える。さらには氷河の変化が火山活動を引き起こすことにつながっている。
まずは地震と台風の関係から見ていく。今、気候変動の影響による台風の大型化が懸念されているが、それらが地震の引き金になると主張する科学者がいる。
フランス・レンヌ大学の地形学の専門家・フィリップステア博士は地下200メートルに設置した計測器で台風が通過した後の地殻変化を調べた。その結果、髪の毛の直径のわずか100万分の1未満という歪みを感知した。博士によれば「台風が通過する時のメカニズムは大きく分けて2つあり、台風は低気圧なので、海であれ陸であれ、わずかであるが、地面の表面を上に引きあげる力を発生させる。さらに大雨が影響し降り注いだ雨が地中や川にたまっていく。こうして蓄積された大量の水の重さが地殻にのしかかる。この一連の伸び縮みが地殻を刺激することにつながり、地震を引き起こす可能性がある」と主張している。
次に火山の噴火が海流を変化させることについてみていく。フランス国立科学研究センターのディディエスィンケドゥ博士は火山の噴火と海流の関係性を調べている。北極圏で冷やされた水は冷やされた重みで海底に沈むが、この動きが原動力のひとつとなり、海流となる。今度は北極圏の海水の動きに呼応して大西洋の熱帯域で温められた海水が北へと運ばれるが、その海水は北極圏で冷やされ海底に沈み、地球規模の海水の循環が続いていくことになると博士は説明する。
その上で博士は海流の循環は火山噴火によって変わってしまうとする。1991年のフィリピン・ピナツボ火山の噴火によって太陽光が遮られた結果、地球の平均気温は0.4度下がり、その結果、北極圏における冷たい水が増え、水の沈み込む勢いが増し、メキシコ湾流のスピードが速まる状態が20年以上続いたという。海流の循環が速くなると赤道付近の暖かい空気も通常より多く運ばれた可能性がある。火山噴火と海流という一見無関係な自然現象が複雑に絡み合っているのである。
最後は氷河の変化が火山活動を引き起こすことの関連性についてみていく。
地球温暖化によって南極の氷が融けていることは疑う余地はないが、実はもうひとつのファクターがあると主張するのがミネソタ大学の科学チーム・マックスバンウイックドゥブリスである。彼らはアイスランドの氷河が南極大陸と似ていることから、南極の氷の下にも大陸があるのではないかという仮説に基づき研究を進めた結果、南極の西側に一列に並ぶ火山群約3000キロメートルが埋もれていることが判明した。
氷の下の地面には氷の重さで圧力がかかり、それがマグマの上昇を防いでくれているが、氷が融ければその圧力が弱まりマグマは上昇し、ついには噴火が起きる。噴火が起きると氷がより早く融け、氷が融けると噴火が増えるという最悪のサイクルが生まれることになる。
南極大陸の氷が全て融ければ海面が50メートル以上も上昇し多くの都市が海に沈んでしまうことになる。地球の行方を左右する科学者たちの研究は今日も続けられている。
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映像記録・関東大震災-帝都壊滅の三日間~(9/3放送)
1923年9月1日、帝都・東京を関東大震災が襲った。10万5000人余りが亡くなり、帝都東京は壊滅状態となった。
当時、日本一高い建物だった12階建ての浅草凌雲閣は8階から上が折れ、炎を噴き出していた。
関東大震災の被害を広げたのは地震以外にも、火災によるところが大きかった。火災を広げたのは当時、吹いていた風速10m前後の強風で、東京の至る所134か所で火災が発生させることとなった。
9月1日午後4時前、隅田川沿いの軍服工場が移転したあとにできた広大な空き地・陸軍被服廠跡(両国)に震災で家屋を破壊された4万人にのぼる人々が避難した。...
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1923年9月1日、帝都・東京を関東大震災が襲った。10万5000人余りが亡くなり、帝都東京は壊滅状態となった。
当時、日本一高い建物だった12階建ての浅草凌雲閣は8階から上が折れ、炎を噴き出していた。
関東大震災の被害を広げたのは地震以外にも、火災によるところが大きかった。火災を広げたのは当時、吹いていた風速10m前後の強風で、東京の至る所134か所で火災が発生させることとなった。
9月1日午後4時前、隅田川沿いの軍服工場が移転したあとにできた広大な空き地・陸軍被服廠跡(両国)に震災で家屋を破壊された4万人にのぼる人々が避難した。
何かが起きれば「被服廠跡に行けばよい」というのが当時の地元住民の合言葉だった。
被服廠跡は避難した4万人でごった返していた。これで助かったと思ったのか、みなが安堵の表情を浮かべていた。
ところがその数時間後、高さ数十mにも及ぶ炎の竜巻、火災旋風が避難民を襲った。驚くべきことに3万8000人が命を落としてしまった。被服廠跡は焼け焦げた遺体で埋めつくされていた。
火災旋風は風の流れに偏りがあるところで発生しやすいという特徴がある。隅田川の上は障害物がないので風がまっすくに通りやすいのに対し、市街地は家屋等の障害物があり風の流れが緩やかになっている。この2つの境界で速度の違う風がぶつかり合い、偏りが生じて火災旋風が発生したと考えられる。
火災旋風はあたかも狂暴な獣のように被服廠跡2万坪の広場を駆け回り人々を舞い上げ、焼き尽くしていった。
被服廠跡に避難した人々は自身の家財道具一式を持ち避難していたため、それが燃え草となって火災の領域を拡大させ火災旋風の通り道を作ってしまった可能性が高い。
東京シネマ商会のカメラマン・白井茂が後年、焼き尽くされた被服廠跡の様子を「後世の為に撮っておきたい」と警官に断りを入れて撮影しようとしたところ、「いいでしょう。撮りなさい」と許可を得ることができた。
ところが、この警官は「ここの死骸の山だけは撮らないでくれ」と言ってきたという。
理由を聞いたところ、「これは私の家族なんだ」という答えが返ってきたという。まさに関東大震災とそれに続く火災旋風の恐ろしさを感じさせるエピソードである。
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わが子が“闇バイト”に手を染めるとき~(8/27放送)
強盗や特殊詐欺など連日のように報じられる闇バイトをきっかけとした事件。警察庁によると去年特殊詐欺に関わって検挙された2458人のうち、66%が10代から20代の若者だった。なぜアルバイトで稼げる以上の金を持っているのか、疑心暗鬼に陥る親が増えており、都内の探偵事務所には今わが子の素行を調査してほしいと依頼が相次いでいるという。
NHKでは全国の少年院を対象に闇バイトに関するアンケート調査を実施し、587人からの回答を得た。...
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強盗や特殊詐欺など連日のように報じられる闇バイトをきっかけとした事件。警察庁によると去年特殊詐欺に関わって検挙された2458人のうち、66%が10代から20代の若者だった。なぜアルバイトで稼げる以上の金を持っているのか、疑心暗鬼に陥る親が増えており、都内の探偵事務所には今わが子の素行を調査してほしいと依頼が相次いでいるという。
NHKでは全国の少年院を対象に闇バイトに関するアンケート調査を実施し、587人からの回答を得た。このうち闇バイトをしたことがあると答えたのは120人。動機として最も多かったのが「遊ぶ金が欲しかった」で、全体の45%を占めた。家庭の経済状況を尋ねると66%が「平均以上の家庭だった」と回答したことから、生活の苦しさとは関係なく闇バイトに関わる若者がいることが分かった。闇バイトを犯罪だと認識していたのは8割近くに上っていた。
その一方で、3割は罪悪感が乏しいままだったことがアンケート結果から見て取れる。罪の意識なく闇バイトに手を染めたあと、失ったものの大きさに気が付く若者もいる。半年にわたって闇バイトを繰り返し、懲役1年8か月の実刑を受けた男性は、コロナ禍で仕事を失い、パチンコなどで借金を作り、闇バイトでクレジットカード情報の不正使用などを繰り返すようになり、逮捕されたが、その後も自分の不遇を嘆く日々が続いた。
こうした考えが変わるきっかけになったのは毎月2通以上送られてきた父親からの手紙だった。この手紙によって自分の罪がどれだけ家族を苦しめることになったのかを思い知ったという。男性は出所後、一から仕事を探し、今は家電修理の職を得て、「地道に稼ぐ姿を家族に示したい」と思っている。
全国の少年院のアンケート調査では「家族に悩みごとを相談できたか」という問いに対して闇バイト経験者の6割が「相談できなかった」と回答した。内訳を見ると「家族関係に問題はない」という回答と「悪かった」という回答がほぼ半々で、家族関係のよしあしにかかわらず家族に相談できない状況があることが分かった。
かつてSNSで闇バイトの実行役を集めるリクルーターの役割をしていたという男性は、家族に相談できない若者の心理を逆に利用して犯罪に引き込んでいたとその内情を語った。
高齢者からキャッシュカードをだまし取るなど4件の特殊詐欺の犯行に関与した女性は、家族と暮らしている自宅の住所を知られており、「(詐欺の仕事を)断れば家族がどうなっても知らない」と脅されたため、家族に相談できなかったと話している。
交通事故によって亡くなった際に、尋常でない数のSIMカードが部屋から発見され闇バイトをしていたことが発覚した大学生は、亡くなる5日前、「闇バイトに足を踏み入れてしまった自分はどう生きていけばいいのか」「光の世界で金を稼ぎ、生きていくのか、闇の世界で稼ぎ生きていくのか。そろそろ新しい世界へ旅立たないといけない」などと語る動画をSNSに投稿していた。父親は「未成年ということを考えれば、親の責任は逃れられないと思う」と後悔の念を隠すことはなかった。
父親は息子がまだ闇バイトをしていなかった頃に2人旅をしたことのある広島を再び訪れてみた。当時と変わらない穏やかな海辺がそこにあったが、砂浜を歩き続けていた父親の後ろ姿は寂し気にみえた。
闇バイトという若者の未来も家族の絆も全てをのみ込んでしまう底なしの闇は今も甚大な被害を生み出し続けている。
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混迷の世紀・台頭する“第3極”トルコ“全方位外交”の光と影~(8/20放送)
“東西文明の十字路”と呼ばれ、地政学的にもヨーロッパとアジアをつなぐ接点となってきたトルコ。特に、ロシアによるウクライナ侵攻以降は、NATO加盟国としてウクライナを支援する一方で、ロシアとの関係も維持する“全方位外交”を展開し、ウクライナ戦争における仲介者として存在感を増している。対立する両陣営と接点を持つ独自の外交戦略の背景について、エルドアン政権外交安全保障アドバイザー・アキフキレチジ氏は「長年東西両陣営との関係を模索し続けてきた歴史がある」と語る。...
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“東西文明の十字路”と呼ばれ、地政学的にもヨーロッパとアジアをつなぐ接点となってきたトルコ。特に、ロシアによるウクライナ侵攻以降は、NATO加盟国としてウクライナを支援する一方で、ロシアとの関係も維持する“全方位外交”を展開し、ウクライナ戦争における仲介者として存在感を増している。対立する両陣営と接点を持つ独自の外交戦略の背景について、エルドアン政権外交安全保障アドバイザー・アキフキレチジ氏は「長年東西両陣営との関係を模索し続けてきた歴史がある」と語る。
欧米列強によってオスマン帝国が分割されたあと、ちょうど今から100年前の1923年に建国されたトルコ共和国の初代大統領・ケマルアタチュルクは政治と宗教を厳格に分ける世俗主義を掲げ、欧米の価値観を取り入れることによって近代化を目指した。
1950年代の朝鮮戦争では米国が主導する国連軍にトルコは1万5000人ともいわれる兵士を派遣し、その貢献が認められ1952年にはNATOへの加盟が正式に認められた。更にイスラム圏の国として初めてEUへの加盟を目指すことになった。当時、与党党首だったエルドアンはトルコがEU加盟の基準を満たすヨーロッパの一員だとアピールし死刑制度を廃止するなどの法整備を約束したが、イスラム過激派の存在を理由にフランスなどがトルコのEU入りに難色を示したため、加盟交渉は暗礁に乗り上げた。
これ以来、トルコはロシア、中国や中東アフリカ、南米とも関係を深める全方位外交に舵を切った。こうした戦略への転換をエルドアンと共に主導したアブドゥッラーギュル前大統領は「私たちは西側ばかりに目を向け、東側の世界をないがしろにしてきた。これが怠慢な姿勢だったと気が付き全方位で関係を強化する方針を打ち出したのだ」と語った。
ロシアによるウクライナ侵攻が始まると、国際社会がトルコの全方位外交に期待を寄せる局面が早速訪れた。舞台となったのは緊張が高まる黒海。きっかけはウクライナの港がロシア軍に封鎖され、ウクライナ産の農産物が海路で輸出できなくなったことだった。この時、国連と共に動いたのが両国と関係を持つエルドアン大統領だった。
ロシアとウクライナの間を国連と共にトルコが仲介し、ウクライナ産の農産物を積んだ船の航行を妨げないことで合意が成立した。国連・グテーレス事務総長は「トルコの貢献がなければ合意は成立しなかった」と高く評価。この合意によってウクライナから世界へ運ばれた農産物はこれまでに3200万トン以上。食料不足に陥っていた中東やアフリカなどの国々に届けられた。
全方位外交を展開するトルコはその先に何を目指しているのかについて、地政学が専門のジョージフリードマンは「トルコは分断が深まる世界の仲介者となることで国際的な地位を高めようとしている」と分析した。
実はウクライナ侵攻前までヨーロッパとアジアをつなぐ物流ルートはロシアを経由する「北回廊」が中心だったが、欧米による経済制裁の影響で使えなくなったため、トルコが推し進める一大物流ルート「中央回廊」の重要性が一気に増した。中央回廊の拠点の一つカザフスタン西部のアクタウにはトルコ企業の進出も相次ぎ、リゾートホテルを建設するなど、今開発が急ピッチで進められている。
100年前、トルコが建国される以前のオスマン帝国はアジアからヨーロッパ、北アフリカにまたがる広大な交易国家として繁栄したがエルドアン大統領はこのオスマン帝国の復活であるネオオスマン戦略をもくろんでいる。
エルドアン大統領はそのための布石を着々と打ち、去年、中央回廊が通るカザフスタンなど5か国の首脳などと会談。政治的にも経済的にも連携を強めようと呼びかけた。これらの国々はかつて旧ソビエトの一部でその後もロシアが自らの勢力圏と見なしてきたが、ウクライナ侵攻以降、ロシアと距離を置く国も出る中でトルコが影響力を強めている。中央回廊の先にあるのが中国で、トルコは「中央回廊」を通じて中国との間でも東西の物流を拡大させようとしている。そのためにエルドアン大統領は中国などが主導する上海協力機構への加盟にも意欲を示し、習近平国家主席に接近しようとしている。
華々しい活躍を見せるトルコだが、その一方で“強権的”ともいわれるエルドアン大統領の姿勢が、欧米が築き上げてきた秩序や価値観との間で摩擦を生んでいる。そもそもこの20年間、エルドアン大統領は自らに批判的なメディアを抑え込むなど欧米各国からは強権的だとの批判の声も出ていた。
エルドアン政権からの弾圧を避けるためにトルコからスウェーデンに逃れてきた新聞社の元編集長・ビュレントケネシュは7年前のエルドアン政権の転覆をねらったクーデター未遂事件に関係あるとみられ、トルコ当局から追われる身となっている。
ロシアの脅威に対抗するため、スウェーデンはフィンランドと共にNATOへの加盟を申請、米国をはじめほぼ全ての加盟国が支持したものの、唯一難色を示したのがエルドアン大統領だった。加盟の条件としてスウェーデンに求めたのがビュレントケネシュの引き渡しだった。スウェーデン国内で激論が交わされた結果、スウェーデンはケネシュの引き渡しは拒否するが、その代わりトルコに配慮し憲法を改正して新たな法律を作り、テロへの関与が疑われる人物の在留許可を取り消すと表明した。この結果に満足したのかエルドアン大統領はNATOの首脳会議を前にスウェーデンの加盟を議会にはかると初めて表明した。
エルドアン大統領が見せる強権的姿勢の2つ目がクルド民族に対する姿勢である。米国がシリアにおいてクルド系の武装勢力を支援したことに激しく反発。その後、独自の判断でアサド政権を支持するロシアやイランと和平協議を始め、米国との足並みが乱れていくきっかけを作った。さらにシリア国内のクルド人武装勢力への越境攻撃に踏み切り、欧米各国から強い非難を浴びることとなった。
今、トルコと欧米との新たな火種とも見られているのが国産兵器の開発と各国への輸出である。ウクライナを支えたトルコ製の軍事用ドローン・バイラクタルTB2の各国への輸出を加速させ、これまでに中東やアフリカなど30か国以上に輸出した。その中には欧米が武器の輸出を禁じている国、西アフリカ・マリなどが含まれている。
マリではクーデターを決行した軍が権力を掌握し、これに対し欧米各国は制裁を科した。そのマリに今年、10機以上のトルコ製のドローンが売却された。更に今、新たに開発が進んでいるのが最新鋭のステルス戦闘機「カーン」。米国のF35にも匹敵する能力を目指し、各国への輸出も視野に入れている。トルコの防衛産業庁・イスマイルデミル前長官は兵器の開発や輸出を通じてさまざまな国への影響力を強めていきたいとしている。
米国の国際政治学者でオバマ政権の大統領特別補佐官を務めたこともあるチャールズカプチャンは「エルドアン大統領はネオオスマン戦略と呼ぶべき方針を追求している。今後、トルコは大国と渡り合い、より複雑化する国際情勢を左右する重要な存在になるだろう」とトルコの今後を予測した。
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原子爆弾・秘録~謎の商人とウラン争奪戦~(8/6放送)
ベルギーの国立公文書館に眠っていた3万ページに及ぶ未公開資料を基に広島の原爆投下の裏側で暗躍した闇商人の実態にNHK取材班が迫った。この貴重な資料はベルギー最大の財閥系鉱山会社ユニオンミニエールがこれまで機密扱いとしてきた幹部だったエドガーサンジェによる資料を特別に公開したものである。ウランの取り引きを記録した覚書や手書きのメモ、更に晩年に書き残していた手記などが含まれている。
サンジェがウランと出会ったのは原爆が開発される実に20年以上も前であった。...
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ベルギーの国立公文書館に眠っていた3万ページに及ぶ未公開資料を基に広島の原爆投下の裏側で暗躍した闇商人の実態にNHK取材班が迫った。この貴重な資料はベルギー最大の財閥系鉱山会社ユニオンミニエールがこれまで機密扱いとしてきた幹部だったエドガーサンジェによる資料を特別に公開したものである。ウランの取り引きを記録した覚書や手書きのメモ、更に晩年に書き残していた手記などが含まれている。
サンジェがウランと出会ったのは原爆が開発される実に20年以上も前であった。当時40代だったサンジェは当時、ベルギーの植民地・コンゴに派遣され、銅の生産を任されていた。そこで偶然出会ったのが異常なほど純度の高いウラン鉱石だった。当時は用途は見つからず、大量の在庫を抱えたまま1937年に一時閉山せざるをえなくなった。
ところが、1938年末にドイツ人科学者がウランの核分裂反応見つけ出し、運命の転機が訪れた。ウランの中に僅か0.7%しか含まれていないウラン235に中性子をぶつけると原子核が2つに分裂。ウラン235を濃縮するとこの反応を連鎖的に引き起こすことが可能になり、天文学的な力を作り出せることが分かったのである。
この後、突然サンジェのもとに欧州の列強から問い合わせが相次ぐことになった。英国でサンジェは英国人科学者・ヘンリーティザードと面会し、用途を明かされないままコンゴのウランを提供してほしいと持ちかけられた。サンジェが回答を濁すと別れ際、「ウランが敵の手に渡ればあなたの国や私の国にとって大惨事になるかもしれない」とつぶやいたという。核分裂が発見されたドイツでは当時、ヒトラー率いるナチスが台頭し、ドイツが核による巨大なエネルギーを手にするのではないかと恐れられていたのである。
この数日後、手記にはフランスでも科学者と面会したことが記されている。物理学者・ジョリオキュリーから「ウランを爆弾の研究に使いたい」と売却を求められた。サンジェはこの時はじめて自分が抱えた大量のウランの在庫の価値に気がつくことになった。
1939年9月、ドイツがポーランドに侵攻し、第二次世界大戦が勃発。ドイツはその後次々と戦線を拡大し、1940年5月にはオランダやベルギーへの侵攻を開始。危機感を感じたサンジェはコンゴに保管していた在庫のウラン約1200トンを会社に無断で米国へと運び出した。ウランはニューヨークの中心から10キロほどにあるスタテン島に持ち込まれ、倉庫で2000本のドラム缶に入れられて保管された。
米国ではドイツの核開発に対抗するため、ウランの活用が本格的に検討され始めていた。サンジェはニューヨークに事務所を開設し、そこで人脈を作りながらウランの売り込みを画策していた。1年後、日本の真珠湾攻撃によって米国が第二次世界大戦に参戦することを決め事態が大きく動き始めた。米国の参戦をビジネスチャンスと捉えたサンジェは積極的に米国に働きかけ、確認できただけで5回に上る売り込みを行っていた。
1942年9月18日、原爆開発の極秘プロジェクト「マンハッタン計画」の総責任者・レスリーグローブスは側近のケネスニコルズをサンジエのもとに派遣した。その場にあった黄色い紙に2人で交わした即席の契約書には米国に持ち込んだウラン1200トンに加え、まだコンゴに保管されている残りの在庫ウランも全て米国が買い取ることが記されていた。
サンジェは高値で取り引きされる軍事利用に執拗なこだわりを見せたという。高純度のウランを独占することに成功した米国は秘密都市オークリッジを建設し、ウラン235の濃度を高める濃縮作業に着手。同時に米国は欧州に諜報員を派遣。ドイツの原爆開発の進捗を調べていたが、その結果、ドイツはミサイルの開発に精力を注ぐ一方で原爆については資金難などから開発を断念していたことが明らかになってきた。
自分たちだけが原爆を手にすることができると確信し始めた米国はこのころから核の力を独占することで戦後の世界を主導しようと考え始めていた。1944年9月、米国はサンジエの仲介の下、同盟国の英国、ベルギーとユニオンミニエールが閉山していたウラン鉱山を再開発。それを米国と英国が将来にわたって独占的に購入するという秘密協定を結んだ。
米国は開発中だった原爆の実戦使用を検討し始めるが、標的とされたのが当時、玉砕も辞さず徹底抗戦を続けていた日本だった。米国は一貫して原爆投下は戦争を早期に終わらせるためだったとしてきたが、専門家は核を独占した上でその威力を見せつけることが重要だったと指摘。米国のウラン独占はその後の世界を運命づけた。
唯一の核保有国となった米国はその後もコンゴ産ウランを使って新たな核実験を繰り返し、世界に力を誇示していった。サンジェの手記には欲望を加速させていく国家に対して一人の商人が抱き始めた恐怖がつづられていた。これに待ったをかけたのがソビエト連邦で、米国の原爆の脅威を目の当たりにし、敗戦国であるドイツの設備や人材も総動員して核開発を推し進め、米国の独占を突き崩した。1949年ソビエトは初の核実験に成功し、核による軍拡競争の口火が切られた。
大国の駆け引きが激しくなる中、サンジェは米国の監視下での生活を余儀なくされていた。米国政府高官がサンジエに対し「廃鉱しても構わないから、増産を急いでほしい」と圧力をかけてきた。時のトルーマン大統領から直接要求されたことも記されていた。こうした要求にサンジェは強い不満を抱くようになる。それでも譲らなかった米国の要求に応えるため、コンゴのウラン鉱山では過酷な労働が強いられていた。
鉱山周辺には1万人を超す労働者が暮らしていたが、強い放射線を発するウラン鉱山の中での人力作業で多くの人が体調不良を訴えていた。コンゴがベルギーから独立する1960年までサンジエが米国と英国に渡したウランは広島原爆を3500発作り出せる量に上ったという。その間、米国はほかにもウランの入手先を増やしながら194回の核実験を繰り返した。ウランの取り引きで急成長を遂げた鉱山会社・ユニオンミニエールが1960年に公表した売り上げは年間2000億円近く。ヨーロッパ有数の鉱山会社へと成長していた。その功績が認められて、サンジェは名誉会長まで上り詰めた。
サンジェがウランの取り引きについて最後まで沈黙を貫いた理由について、サンジェの右腕だったルロワの孫・モニークドゥルエットが「自分から始まったすべての事柄がどれほど遠くに波及してしまったのか考えられずにはいられなかったはず。最初はただのビジネスマンだったのに、その後、起こったことは自分の領域を明らかに飛び越えてしまった。それこそが(彼らが)沈黙していた理由かもしれない」と語った。
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