認知症行方不明者1万8000人(4/14再放送)
今、認知症の人は推計600万人以上といわれている。そうした中、認知症の行方不明者が増え続けている。おととし、認知症やその疑いがある451人もの人が、行方不明になって命を落とした。警察に行方不明届が出された件数は過去最多の1万8000人に上っている。10年前と比較すると倍増している。
最近特に目立つのが認知症の症状が比較的軽いとみられる人が保護されるケースである。認知症のグレードでは、認知症がない状態の「健常者」、「軽度認知障害(MCI)」、日常生活はほぼ自立している「軽度認知症」、日常生活に一部介護が必要な「中等度認知症」、常に介護が必要な「重度認知症」という段階に分けられるが、専門家は「軽度認知症」の人が行方不明になるリスクが高いと指摘している。...
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今、認知症の人は推計600万人以上といわれている。そうした中、認知症の行方不明者が増え続けている。おととし、認知症やその疑いがある451人もの人が、行方不明になって命を落とした。警察に行方不明届が出された件数は過去最多の1万8000人に上っている。10年前と比較すると倍増している。
最近特に目立つのが認知症の症状が比較的軽いとみられる人が保護されるケースである。認知症のグレードでは、認知症がない状態の「健常者」、「軽度認知障害(MCI)」、日常生活はほぼ自立している「軽度認知症」、日常生活に一部介護が必要な「中等度認知症」、常に介護が必要な「重度認知症」という段階に分けられるが、専門家は「軽度認知症」の人が行方不明になるリスクが高いと指摘している。
物忘れが出始めるものの、介護の必要性が低い場合も多く、会話など日常生活にはあまり支障がなく買い物や散歩など1人で出かけることもできる。ところが、ひとたび天気や周囲の明るさによって景色が変わると、角を曲がりそびれただけでも道がわからなくなることがあるという。比較的体力もあるだけに、遠くまで行ってしまうことも多く、行方不明になりやすい。
去年6月、認知症基本法が成立した。この法律は今後の認知症の政策の土台となり、行方不明の対策などに生かされる。これまで行われてきた取り組みは行政と家族などの目線が重視されてきたが、新しい法律ではまちづくりなどを進める時に認知症の本人から話を聞くことを明記しており、認知症の人の意思や考えを尊重した社会をつくっていくことを目指している。
認知症による行方不明が大きな社会問題として顕在化したのは30年ほど前になる。国は対策として「SOSネットワーク」と呼ばれる見守りの仕組みの整備を促進し、この仕組みは今でも行方不明に対応する取り組みの柱になっている。
事前に家族などが認知症の人の情報を行政や警察に登録しておくと、行方不明になった時、協力してくれる住民やコンビニ、タクシー会社などとの情報共有が可能になり、一緒に捜索に当たることもできる。この仕組みの盲点となっていたのが「1人暮らしの高齢者への対応」で、1人暮らしの高齢者は登録通報が行われにくく、行方不明になったことすらわからない可能性がある。
認知症による行方不明を防ごうと、各地で新たな取り組みが始まっている。最新技術を使った対策を進めているのが兵庫県加古川市。認知症などの高齢者に位置情報を発信するタグを配布。位置情報を検知するのは町なかにあるおよそ1700台のカメラや、郵便局のバイク、アプリを入れた住民のスマートフォンなどである。
町にあるさまざまな形の検知機は半径20m以内にタグを持った人が入った瞬間に時間と場所が記録されるため、発見につなげることができる。警備会社など4つの企業と共同開発したこのシステム。今後は普段と違う動きを検知することで行方不明の可能性を知らせる機能の開発にも着手している。
福岡県大牟田市が掲げているのは「道に迷わず安心して外出できる町」。4年ほど前から認知症の人たちとのミーティングを行っている。市は聞き取った内容を参考にしながら認知症の人にもわかりやすい目印となる標識を設置したり、公共施設などの案内を認識しやすいデザインに変えたりすることを目指している。
行方不明のリスクから認知症の人と家族をどう守ることができるのか。安心して暮らせる社会への模索が続いている。
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未解決事件File.10・下山事件第2部~(3/30再放送)
戦後最大の謎といわれる下山事件。1949年7月、国鉄職員10万人の解雇に関して労組と交渉中、下山総裁は忽然と姿を消した。その後、無残な轢死体で発見された。検死解剖の結果、死体から血が抜き取られていたことが発覚し、自殺か他殺かをめぐる大論争へともつれ込んでいく。今回、取材班は捜査の全容を記録したとされる極秘資料を入手。75年の時を経て新たな事実が明かされる。
事件から2年後、当時首相だった吉田茂が日本の占領政策終結に向け、ダレス対日講和問題特使と会談した。...
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戦後最大の謎といわれる下山事件。1949年7月、国鉄職員10万人の解雇に関して労組と交渉中、下山総裁は忽然と姿を消した。その後、無残な轢死体で発見された。検死解剖の結果、死体から血が抜き取られていたことが発覚し、自殺か他殺かをめぐる大論争へともつれ込んでいく。今回、取材班は捜査の全容を記録したとされる極秘資料を入手。75年の時を経て新たな事実が明かされる。
事件から2年後、当時首相だった吉田茂が日本の占領政策終結に向け、ダレス対日講和問題特使と会談した。この時、吉田は下山事件の犯人を韓国人と断定した。膨大な資料の分析から吉田首相が名指しした韓国人と見られる人物は李中煥であることがわかった。
李は学生時代、友人の影響で共産主義を信奉。ソビエトにあるモスクワ共産大学政治学科へ進学した。大学卒業後、ソビエト共産党政治局諜報部に入り、暗号化係へ配属。その後、日本へ戻りモスクワから来る暗号指令を翻訳するなどし、対日理事会ソビエト代表・デレビヤンコ中将へ情報を渡していた。捜査資料には「李の話す内容は極めて具体的で、犯人しか知りえないもの」と書かれていたものの、なぜか米国の意向で捜査は打ち切られた。
極秘資料には李が情報を渡していたと見られる人物・ビクターマツイの名前が記されていた。マツイは当時、GHQ・G2参謀第二部の傘下にあるキャノン機関で諜報活動を担当していた。
マツイの所属していたZ機関は通称キャノン機関と呼ばれ、占領下の日本で旧陸軍の出身者や警察組織と深くつながり、さまざまな反共工作を行っていた。
下山事件が起きた1949年は、米ソの覇権争いが激化していた時期でもあり、この年、ソビエトは核実験を成功させ、共産主義勢力の拡大を目指していた。一方、米国は日本を反共の砦にすべく動いていた。ジャックキャノン少佐率いるキャノン機関は二重スパイを使い反共工作を主導していた。
7月三鷹駅構内で無人電車が突然暴走し6人の死者を出す大惨事となった三鷹事件。さらにその1か月後、機関車が脱線転覆し、乗務員3人が亡くなった松川事件にもキャノン機関が関与したと言われている。
G2傘下で幅広い諜報活動を実行していた東京神奈川CICには10名の工作員が所属しており、その下にさらに合計100名の協力者が管理されていた。彼らにG2は共産主義者についての情報を提供させていた。この中に李が含まれていた。要するに李は米国が利用する二重スパイだった可能性がある。
元読売新聞記者・ジャーナリスト・鎗水徹は「李は犯人ではない」と見ており、李は共産主義者による他殺と信じ込ませるために利用されただけだと考えていた。鎗水は“戦後最大のフィクサー”と言われる児玉誉士夫から情報を得ていた。
児玉は、鎗水に対し事件の黒幕は米国だとし、「国鉄の人員整理にからんで下山の殺害計画があった」「有事の際の国鉄利用のために下山は殺された」と証言したが、得体の知れない圧力がかかり、疑惑についてさらなる詳細を書くことなく、鎗水は記者を辞めてしまった。下山は、国鉄の労働者に理解を示していたとされ米国の諜報部隊からマークされていたようだ。
下山総裁の死後、10万人の人員整理は大きな抵抗なく完了した。約1年後に始まる朝鮮戦争で国鉄は直後から軍事物資や兵士の輸送などに協力した。その車両の数は2週間で1万2000両を突破し、国鉄の軍事輸送史上最高を記録した。
朝鮮戦争が勃発してから1年後、当時首相だった吉田茂は米国・ダレス対日講和問題特使と会談し、下山事件は米国が関与していたという疑惑には一切触れることはなく、1人の韓国人(李中煥)が引き起こした事件として幕引きが図られた。真相は日本の手綱を握ろうとする巨大な力を前に闇の中へと消えていった。そして事件のあとに敷かれたレールの上で今の日本社会が形づくられている。
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未解決事件・松本清張と帝銀事件・74年目の“真相~(3/25再放送)
敗戦国となった日本。GHQ連合国軍総司令部の統治下で戦争の勝者と敗者が交錯し、混沌を生み出していた1948年1月26日、東京で帝銀事件は起きた。
閉店直後の帝国銀行椎名町支店に都の衛生課の職員を名乗る男が現れ、集団赤痢が発生したとの理由で、自身が手本となり薬を飲み、信用させた上で赤痢の予防薬を銀行員達に飲ませた。結果、8歳の子どもを含む12人が死亡した。
警察は2万人を動員し犯人の本格的なモンタージュ写真を作成、7か月にわたり捜査を続けた。...
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敗戦国となった日本。GHQ連合国軍総司令部の統治下で戦争の勝者と敗者が交錯し、混沌を生み出していた1948年1月26日、東京で帝銀事件は起きた。
閉店直後の帝国銀行椎名町支店に都の衛生課の職員を名乗る男が現れ、集団赤痢が発生したとの理由で、自身が手本となり薬を飲み、信用させた上で赤痢の予防薬を銀行員達に飲ませた。結果、8歳の子どもを含む12人が死亡した。
警察は2万人を動員し犯人の本格的なモンタージュ写真を作成、7か月にわたり捜査を続けた。そして1人の容疑者が北海道で逮捕された。横山大観の弟子で一流の画家として知られていた容疑者で、当時、事件現場の近くに住んでいた。事件直後に出所不明の大金を手にしていたことに加え、アリバイも立証できなかった。1か月以上の取り調べで自白し裁判で死刑判決が確定した。
帝銀事件捜査には膨大な資料が残されており、捜査員たちが当時、陸軍を調べていたことがよくわかる。事件が起きた1948年には、戦地から軍人たちが続々と帰還していた。全く知られていなかった南方軍防疫給水部(インドネシアバンドン支部)は東南アジアに支部を広げていった。
この防疫給水部は戦場で汚れた水をろ過し、感染症予防を行うことを主な任務としていたが、その裏では毒物の研究を行い、青酸銀の薬品注射の研究をしていたと捜査資料に書かれている。
警察は南方軍防疫給水部とつながりのあった関係者と網を広げていき、その2カ月後、731部隊の壁に突き当たった。731部隊は戦時中、細菌兵器開発のため旧満州で人体実験を繰り返していた。青酸カリを使った人体実験もしていた。
捜査員は部隊を率いていた石井四郎部隊長の居場所を割り出し接触、当時、石井は「(犯人は)俺の部下にいるような気がする」と発言していた。
捜査員は731部隊と深いつながりがある極秘研究機関・登戸研究所にも注目した。ここでは細菌を搭載した気球を米国まで飛ばす風船爆弾などの実験など、戦時下の諜報活動で使われる秘密兵器の製造をしていた。
終戦とともに研究データや資料は焼却されてしまったため、詳しい実態はわかっていないが、登戸研究所から旧陸軍が青酸ニトリールを持ち出していたことがわかっている。そうして持ち出された青酸ニトリールが帝銀事件で使われたとしても不思議ではないと登戸研究所の幹部は残された音声テープの中で語っている。
ここまで迫りながら捜査が転換されたのはGHQが圧力をかけたからであるとの仮説を松本清張は打ち立てた。当時は占領下であり、GHQは警察も報道機関をも管理下に置いていたことを考えればつじつまが合う。
ごく限られた人しか見られないという、マッカーサー名義で米国に送られた文書には、731部隊が戦時中に行った人体実験データを独占する代わりに石井部隊長達の戦争犯罪を免責するよう提言していた。
帝銀事件の裏側で行われていた取引、731の存在が知られることをGHQは望んでいなかった。当時、ソビエトをはじめとする共産主義国の機運が強まり、東西冷戦の緊張が高まっていたことに危機感を抱いた米国は日本を反共の防壁と位置づけ、ソビエトに日本軍の機密情報を漏らさないようにしていた。
GHQ関係者は石井四郎部隊長に頻繁に会いに行っていたという。服部卓四郎大佐と有末精三中将は陸軍参謀本部の中枢で作戦の立案・指揮を担っていたが、戦争の責任を問われることなくGHQと急速に関係を深めていった。
帝銀事件について問われるとGHQの存在をほのめかす一方で、軍関係の捜査に難色を示し、注意を与えていたといい、捜査に関係していた軍関係者たちも次第に口をつぐむようになっていった。
明治大学・山田朗教授は「戦争犯罪は犯したが追及せず、むしろ隠蔽してしまう。データを独占し、全く違った流れができてしまう。末端で関わった人達まで免責することが具体的に語られ始めたのが帝銀事件のまさに捜査をやっている最中であり、ある意味、分岐点にこの帝銀事件はある」と分析した。
昭和の終わりともに95歳で容疑者は死去。獄中で描かれた絵の展覧会が開かれ、現在20回目の再審請求が行われている。今の日本が形づくられた占領期、捜査員たちが垣間見た闇は1人の画家の逮捕とともに歴史の奥へと消えた。
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廃炉への道2024・瀬戸際の計画・未来はどこに~(3/16放送)
東日本壊滅の危機に直面した原発事故。あれから13年が経過した。国と東京電力が示した廃炉のロードマップは、「最長40年で廃炉を完了する」計画だったが、今、岐路に立たされている。
当初の計画では最初の10年で、溶け落ちた核燃料が構造物と混ざって固まった「核燃料デブリ」取り出しのための準備を行い、2021年までに取り出しを開始する。2036年までには取り出しを終え、建屋の解体処分を開始するという道筋を示していた。...
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東日本壊滅の危機に直面した原発事故。あれから13年が経過した。国と東京電力が示した廃炉のロードマップは、「最長40年で廃炉を完了する」計画だったが、今、岐路に立たされている。
当初の計画では最初の10年で、溶け落ちた核燃料が構造物と混ざって固まった「核燃料デブリ」取り出しのための準備を行い、2021年までに取り出しを開始する。2036年までには取り出しを終え、建屋の解体処分を開始するという道筋を示していた。放射性物質を拡散させるリスクを減らしつつ、住民の帰還を進めていくことを目指していた。
実際には核燃料デブリの取り出しは進んでいない。2度の延期を経て2024年3月、いよいよ数グラムのデブリ取り出し作業に着手したが、ロボットアームが開口部に詰まっていた堆積物に阻まれて作業が進まず、3度目の延期を余儀なくされた。
根本的な課題は総量880トンとされるデブリの取り出し方法について見通しが立っていないことである。
原子炉を囲う格納容器を水で満たすことにより、デブリから出る強い放射線を水で遮蔽しつつデブリを取り出すとする「冠水工法」は、米国のスリーマイル島原発で実績があったが、福島第一原発は損傷が大きく、格納容器に入れた水が漏れ出してしまうために難しいという結論に至った。
「冠水工法」とは別の取り出し方法である「充填固化工法」はどうか。この場合、カギとなるのは、放射線を遮蔽する性質を持っているセメント系の充填材で、これを建屋の上から注入し、その後、原子炉や格納容器の底などデブリがある箇所を固めていくことになる。
その後、固まった構造物をボーリングなどで掘削し、その中に含まれるデブリを回収し、外にある容器に移していく。「冠水工法」に比べ準備期間は比較的短くなるが、まだ研究段階レベルであり、実現できるかは未知数。
問題はデブリの取り出しだけではない。実は汚染水が今も毎日約90トンも発生し続けている。この問題は地下水が原子炉建屋に流れ込むことによって生じている。より具体的に説明すると、地震と原発事故の影響で建屋周辺の地下水の水位が上昇する中、その地下水が配管の貫通部の隙間などを通って建屋の中に流入することで汚染水となっている。現在、複数の対策工事が行われているものの、全て順調に進んでも毎日50トンから70トンの汚染水が発生すると推定されている。
当初のロードマップでは2020年には建屋内の汚染水をゼロにし、水処理を完了させるとしていたが、計画は見直され、現在、その見通しは立っていない。ほとんどの工程が遅れる中、東京電力は未だに「最長40年で廃炉を完了する」と掲げ続けている。デブリ取り出し工法評価委員会・更田豊志委員長は「一番恐れているのは最初に打ち出したものを硬直的に守り続けることだ」と指摘している。
最長40年という廃炉計画が揺らぐ今、廃炉を進めていくためには住民の理解がますます重要になってくる。住民と、どう対話し、どう合意を形成していくべきなのか、ここで問われてくるのは信頼関係の構築である。
1つの例として考えられるのは、今から45年前の3月28日に機器の不具合と人的ミスが重なり、メルトダウンが起きたスリーマイル島原発事故である。この時、事業者と住民を双方向でつなぐ市民パネルが設置された。
この市民パネルにおいては、事業者が国の認可を得るためには住民の意向を無視できない仕組みになっていた。市民パネル設置者のレイクバレット氏は「決して簡単なことではないが、時間をかけて相手の話に耳を傾け、共感を示すことで信頼を勝ち取らねばならない」と語った。市民パネルは13年間、78回にわたって行われ、その結果、住民たちは事業者との間にある溝が埋まっていったと感じるようになった。議論は2037年まで続けられる予定である。
実は福島第一原発の最長40年という廃炉のロードマップそのものも、10年余りでデブリの取り出しをほぼ終えたスリーマイル島原発の廃炉を参考に作られたものであった。ただその状況は福島とは大きく異なる。事故の規模が大きく、廃炉そのものが(スリーマイル島原発に比べ)はるかに困難である。膨大な放射性物質の放出で地域に甚大な被害が広がり、国や東京電力に対する住民感情も厳しく、合意のハードルも高い。
13年前、日本中が共有した危機感。それを過去のものとしないためにも、これからも長い年月をかけて続く廃炉と福島の復興に日本全国の人々がどれだけ目を向けていけるか、私たち一人一人に問われている。
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語れなかったあの日・自治体職員たちの3.11~(3/10放送)
東日本大震災から13年。最前線に立った自治体の職員たちがあの日の苦悩や葛藤を語り始めている。自治体職員は自らも被災しながら災害対応にあたり、過酷な光景を目の当たりにしたが、住民を支える立場上、これまで自分たちの経験を語れずにいた。今回、あらゆる現場に向き合った職員たちが巨大災害の実像を初めて語った。
文化人類学の手法を用いた「災害エスノグラフィー」という手法が始まったのは29年前の阪神淡路大震災で、災害対応にあたった人たちに対してあらかじめテーマを設定せず、体験をありのままに語ってもらうことで災害をさまざまな側面から捉えようとするもの。...
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東日本大震災から13年。最前線に立った自治体の職員たちがあの日の苦悩や葛藤を語り始めている。自治体職員は自らも被災しながら災害対応にあたり、過酷な光景を目の当たりにしたが、住民を支える立場上、これまで自分たちの経験を語れずにいた。今回、あらゆる現場に向き合った職員たちが巨大災害の実像を初めて語った。
文化人類学の手法を用いた「災害エスノグラフィー」という手法が始まったのは29年前の阪神淡路大震災で、災害対応にあたった人たちに対してあらかじめテーマを設定せず、体験をありのままに語ってもらうことで災害をさまざまな側面から捉えようとするもの。災害エスノグラフィーは自治体職員だけでなく、一人一人が次の災害に向き合う力になるという。
発災直後は被害の状況をつかめずにいた宮城県危機対策課・伊深俊克さんは燃料の調達を1人で担当することになった。沿岸部で犠牲者が次々と増える中、限られた燃料をどこに配るのかは命の優先順位をつけるような作業であり非常につらい作業であったという。
伊深さんは「深夜に行われた、政府との合同会議で、病院から『燃料が来てない』という催促の電話が何度もかかってくるのだけれど、どうなっているのでしょうかと政府の方に確認したところ、『実は(燃料を運ぶ)タンクローリーは出発していませんでした』と言われ、『えっ』となって政府の方に『ふざけんな!人の命がかかっているんだぞ』とつい声を荒らげてしまった」と証言した。
日に日に増える遺体で火葬場の対応が追いつかない事態が生じる中、宮城県食と暮らしの安全推進課・武者光明さんは「火葬場がない、なんとかしてくれと言われていた。土葬といっても、どうやればいいのか誰にもわからなかった。そこでネットで検索して関西で今も土葬をやっているところがあることを突き止め、そこに連絡し、いろいろと教えてもらった。それをメモにし箇条書きにフローチャートを作成した」と証言したが、これが土葬のマニュアルとなった。
土葬に携わった気仙沼市環境課・村上安さんは1度は土葬を承諾した遺族から遺体を掘り起こして火葬してほしいとの依頼を受けた。
村上さんは「ご遺体にファブリーズかけていいですかとお願いして掘り起こしをやりました。それぐらい過酷な状況でした」と涙ながらに証言した。
この国を繰り返し襲う巨大地震。常に想定を超えて迫りくる危機に命を脅かされ続けている。自治体職員たちの言葉は未来を救う手がかりとなる。
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