祖父はユダヤ人を救った・ガザ攻撃と“命のビザ”~(9/28放送)
1年前、ハマスの襲撃によって始まったガザでの戦闘。しかし、イスラエルの反撃はあまりにも激しく、死者は4万人を超え、子供が犠牲となった。国際社会からは虐殺行為と批判の声が上がっている。
だが、そのイスラエルは第2次世界大戦時にナチスドイツにより600万人が虐殺されたユダヤ人たちが作った国家である。東洋のシンドラーとも呼ばれ、84年前、ユダヤ人たちを救い、ユダヤ人から称賛されているのがリトアニア元領事代理の杉原千畝である。...
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1年前、ハマスの襲撃によって始まったガザでの戦闘。しかし、イスラエルの反撃はあまりにも激しく、死者は4万人を超え、子供が犠牲となった。国際社会からは虐殺行為と批判の声が上がっている。
だが、そのイスラエルは第2次世界大戦時にナチスドイツにより600万人が虐殺されたユダヤ人たちが作った国家である。東洋のシンドラーとも呼ばれ、84年前、ユダヤ人たちを救い、ユダヤ人から称賛されているのがリトアニア元領事代理の杉原千畝である。
彼は外務省の命令に背き、ナチスドイツに追われたユダヤ人に独断でビザを発給し、その数は、約6000人分に及ぶ。それはナチスドイツからは敵対行為と受け取られる可能性もある危険な決定だった。
ところがイスラエルの攻撃が激しくなるに従い、日本国内でもイスラエルの激しい攻撃を非難する声が広がり始めた。ガザでの戦闘とユダヤ人を結び付け、批判の矛先はネットを通じて杉原千畝の功績を伝えるNPOにまで迫ってきた。千畝に救われたサバイバーたちは高まる批判をどう受け止めているのかを取材した。
6歳の時、杉原ビザで救われた女性は、間違っているのは「イスラエルが加害者でハマスが正しい」という報道であり、「それは真実ではなく反ユダヤ主義だ」と主張する。ユダヤ人への差別思想を指す反ユダヤ主義という思想を利用してホロコーストが行われた反省から、欧米では厳しく戒められている。イスラエル・ネタニヤフ首相もガザへの攻撃に対する批判は反ユダヤ主義だと主張する。
杉原千畝の功績を伝えるNPOの代表を務めているのは孫のまどかさん。2人の子を持つ母であるまどかさんが気にかけていたのはガザの子供たちのことだった。今回、戦争に向き合う意味で杉原千畝のゆかりの地であるリトアニアの「スギハラハウス」とポーランドのアウシュヴィッツ収容所を訪ねることを決めた。
その旅には“助かった命”と“助からなかった命”をたどり、人道主義の意味と向き合う意味もあった。「スギハラハウス」は千畝のもとにユダヤ人が助けを求め集まった日本領事館だ。ドイツ軍がポーランドへ攻め込んだのが1939年の9月で同じ月、ソ連もポーランドに侵攻した。そのため多くのユダヤ人が隣国リトアニアに逃げ込んだが、そこで逃げ道を失った。
ユダヤ人にとっては日本のビザを手にすることだけが唯一の生き残る道だった。「スギハラハウス」には杉原サバイバーの子孫のユダヤ人が来ており、まどかさんが自己紹介すると「ここは私にとって特別な場所です。その名前(杉原千畝)を知らない人はいません。会えて大変光栄です。あなたの祖父と祖母、そして家族のみなさんに感謝します」と声をかけられ抱き合った。
まどかさんはアウシュヴィッツで展示されていた残された大量の遺品、特に子供たちの靴に目を奪われ、心を痛めた。まどかさんは「これ以上の殺し合いはやめてくださいと言いたい」とその思いを語った。
「主人は世界の平和、人間の輪ということを一番大事にしていた。そういうことを人間として大事にして二度と戦争が起きないようにということを非常に言っていた」との千畝の妻・幸子さんの音声テープがNHKに残されていた。
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調査報道新世紀・File5・ミャンマー軍を支える巨大な闇~(9/21放送)
2021年2月、クーデターを起こしたミャンマー軍は抗議する市民を徹底的に武力で弾圧。厳しい情報統制によって、ミャンマーの実態が世界から見えにくくなった。武器をとった民主派勢力が徹底抗戦の構えを強める今、軍はミャンマー各地で市民を巻き込んだ空爆を激化させた。クーデター後、空爆は増え続け、1900回を超えている。軍の弾圧や攻撃による犠牲者は少なくとも5600人を超え、避難民の数は300万人に上るとされる。...
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2021年2月、クーデターを起こしたミャンマー軍は抗議する市民を徹底的に武力で弾圧。厳しい情報統制によって、ミャンマーの実態が世界から見えにくくなった。武器をとった民主派勢力が徹底抗戦の構えを強める今、軍はミャンマー各地で市民を巻き込んだ空爆を激化させた。クーデター後、空爆は増え続け、1900回を超えている。軍の弾圧や攻撃による犠牲者は少なくとも5600人を超え、避難民の数は300万人に上るとされる。
これに対し、米国を中心とする各国は軍に対する制裁を強めている。ところが、日本政府はミャンマーへの制裁は行わず、軍側との対話を通じて暴力の停止などを働きかける方針をとってきた。その日本政府に対し去年4月、ある疑問が投げかけられた。国連の特別報告者・トーマスアンドリュース氏が来日し、日本の政府開発援助・ODAの一部が“軍の利益に”つながっている可能性を指摘し、「日本政府に対し、ミャンマーにおけるODAの人権に対する影響を徹底的に調査するよう強く求める」と訴えたのである。
ミャンマーとODAにはそもそも深いつながりがある。1954年、日本は戦後賠償の一環としてミャンマーで水力発電所の事業を開始した。これが「平和と繁栄への貢献」を理念に掲げるODAにつながり、日本はミャンマーへの“最大の援助国”となっていった。ところが1988年、軍がクーデターを起こし政権を掌握すると、日本政府はODAを大幅に縮小した。日本政府が再びODAを加速させたのは2013年で、軍事政権が民主化に向けて舵を切ったことがきっかけだった。アウンサンスーチーが率いる政権が誕生するとODAは更に拡大し、その規模は総額1兆円を超えた。
そして3年前の2021年、クーデターを起こした軍が市民を弾圧。日本政府は新規のODAを停止したが、その一方で道路や水道といったインフラ整備などの既存案件は継続することとした。継続の理由について外務省は文書で「既存のODA案件はミャンマー国民の生活向上や経済発展に貢献することや人道的ニーズに対応することを目的とするもので、国軍や国軍主導の現体制を支援するものではないことから日本政府の一貫した方針のもとで取り組んでいる」と説明した。
日本政府が継続したODAの中で、老朽化が進んだインフラの改修と近代化を行う目的で継続されている事業がある。ところが日本が改修を進める鉄道区間で、民主派勢力側が10回以上にわたって線路を爆破したということがあった。その理由を探るうちにこの鉄道が軍の軍事物資を輸送するために使われていることが判明した。クーデター後も続けられた日本のODA事業が日本政府の意図に反し、軍事利用されている可能性が見えてきた。
さらに310億円を超える日本のODA資金が投じられたバゴー橋。軍トップのミンアウンフライン司令官は「日本の協力によって橋が完成した」と強調していた。このバゴー橋の建設資金が欧米の制裁対象の企業「ミャンマーエコノミックコーポレーション(MEC)」に支払われていることが関係者への取材でわかった。バゴー橋の建設事業を受注した日本企業で働いていたミャンマー人の女性は「クーデターが起きずに橋が開通していれば橋は心に残るものになっていたはずだが、プロジェクトが軍に乗っ取られてしまい、心底残念だ。開通式の時には悔しくて涙が流れた」と話し、日本のODA事業関係者は「本当は(リスクを)見えていた人たちも見ないふりをしてしまった」と苦しい胸のうちを話した。
MECは鉄鋼から飲料水など幅広い事業を手がけ、一見すると一般の企業のように見えるが、実は別の顔を持ち、軍にとっての資金源になっていることが取材で見えてきた。クーデター後もMECと取引を続けていた企業に取材を申し込んだが、応じることはなかった。外務省は取材に対し「支払いはあくまで事業の対価だ」とした上で「仮にMECに対して支払いを行わない場合は契約違反となり、違約金等が発生する可能性がある。この場合、使途が自由な資金が国軍に流れる恐れがあり、資金流入をできるだけ防ぐ観点から適当ではないと判断した」とした上で、MECに対し最終的にどれくらいの支払いが行われるのかについては「企業情報に当たるため回答は差し控える」として答えなかった。
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封じられた“第四の被曝”なぜ夫は死んだのか~(9/15放送)
1945年8月、広島への原爆投下、3日後の長崎。その9年後の1954年、太平洋上で第五福竜丸が死の灰を浴びたビキニ事件が発生。実はこれに続く“第四の被曝”ともいえる隠された事件があった。1958年、米国の水爆実験で海上保安庁の測量船・拓洋と巡視船・さつまの乗員113人が放射線を浴びた。それは60か国以上が加わる国際地球観測プロジェクトで放射線量を計測する観測員や医師なども乗船していた。1950年代、ビキニ環礁などで頻繁に核実験を行っていた米国はこの時期、3日に1度のハイペースで核実験を行っていた。...
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1945年8月、広島への原爆投下、3日後の長崎。その9年後の1954年、太平洋上で第五福竜丸が死の灰を浴びたビキニ事件が発生。実はこれに続く“第四の被曝”ともいえる隠された事件があった。1958年、米国の水爆実験で海上保安庁の測量船・拓洋と巡視船・さつまの乗員113人が放射線を浴びた。それは60か国以上が加わる国際地球観測プロジェクトで放射線量を計測する観測員や医師なども乗船していた。1950年代、ビキニ環礁などで頻繁に核実験を行っていた米国はこの時期、3日に1度のハイペースで核実験を行っていた。調査は米国が設定した危険区域を避けて実施されることになっていた。
拓洋の幹部以外の乗員たちは航海中に核実験が行われていることは知らされておらず、乗員たちが異変に気付いたのはその日に降ったスコールがきっかけだった。海水からは放射線が計測され、乗員たちはその海水を除染に使うよう指示を受けた。乗員たちは防護服を身に着けずに除染した。拓洋で計測した放射線量が急速に上昇してから5日後、乗員たちは南太平洋のラバウルに避難したが、乗員たちの体には異常が出始めていた。急きょ行われた血液検査では当時、外務省が「正常」としていた白血球数を4人に1人が下回る事態になっていた。
被曝のあと、拓洋の機関士の男性は急性骨髄性白血病でこの世を去った。夫を亡くした夫人は、国から「被曝線量は微量で白血病とは関連づけられない」との遺体の検査結果を伝えられた。夫が亡くなった日に夫人は国の役人から「とにかく口止めされたのは覚えている。とにかく秘密、秘密だった。日本の国だけの問題ではなく、米国も絡んでいるから」と言われ、60年以上、誰にも言えない思いを抱え続けてきた。
第五福竜丸の乗員たちは大量の放射線を浴びた事件は補償問題へと発展し、日米関係は大きく揺らいだ。日本から始まった核実験反対を求める動きは世界規模に拡大し、米国の核戦略は初めて行き詰まりを見せた。当時、米国は反核感情が高まることで極東の軍事戦略を支える米国軍基地が自由に使えなくなる事態を危惧していた。
核戦略を推し進めるために日本人の反核感情を緩和させることが喫緊の課題になっていた。ビキニ事件の2年後の1956年、核実験の再開を目指す米国は日本の科学者たちに被曝の許容線量基準の作成を求めた。被曝が許される上限を定めることによって日本人の核への抵抗感を薄めたいとの考えだ。
許容線量基準の作成に中心的に関わった日本の科学者・東京大学農学部・檜山義夫教授の手紙が米国に保存されていた。教授は「放射能の許容量という意味はいろいろ考えて仕方ないから、これだけ許そうという意味でそれだけ人類に益があるということも前提にしている。これからの原子力時代にはさらに多くの量の放射能を人間は受ける覚悟なしには原子力時代は招来できないと言ってもいい」と書いていた。
当時、許容線量基準が定めていた職業上の被ばくの上限は年間50ミリシーベルト。ジョージタウン大学・樋口敏広准教授はこの基準をあらかじめ定めていたことによって日本の反核感情が刺激されず、事件の沈静化が図られたと分析している。
乗員の被曝線量は本当に「微量」だったのか。11年前に亡くなった拓洋の甲板次長は歯を残していた。歯は時間が経過しても被曝の痕跡を正確に残すとされ、取材班は遺族の了解を得て被曝線量の算出を専門家に依頼した。割り出された被曝線量はおよそ140ミリシーベルト。広島の爆心地から1.8キロの場所にいた人の被曝線量に相当するものだった。
太平洋上で被曝し、その後亡くなった海上保安官の夫。夫人は第四の被曝の封印が解かれることを最期まで願っていたが、国から補償を受け取ることは一切なかった。夫の死から半年後の1960年1月、日本は新たな安全保障条約に調印。戦後の日本が米国の核抑止力に依存する体制が築かれていった。
第四の被曝について米国本国に詳細な情報を送り続けた元国務次官補代理・リチャードスナイダーは報告書の中で今に至る日米関係の構造を「日本人の根底には米国の核実験は不快で人体に害を及ぼす危険があるという意識がある。しかしそれは避けられないものであり、国際情勢に照らすと核実験は正当化されるという考えにさえ至ったようだ。日本人は米国に抗議してもいかなる影響も及ぼすことができず、むしろ日米関係には望ましくない結果をもたらすとの結論に達したようである」と書き残している。
取材班は取材の結果を伝えようと夫人のもとを再び訪ねたが、夫人は持病の心臓病が悪化して話をすることも難しくなっていた。夫人が最後に戻ってきたのは海が見える自宅で、この4日後、夫人は93年の生涯を閉じた。
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MEGAQUAKE巨大地震“軟弱地盤”新たな脅威~(9/1放送)
能登半島地震以降も各地で地震が絶えない日本列島、日本は巨大地震の度に対策を重ね、足元にリスクを抱えながらも都市を発展させてきた。建築耐震工学の専門家は「私たちはどこかで科学の力によって災害を克服できたと勘違いして、非常に危険な場所に街を広げてきてしまった。能登で起きたことは当然、東京でも起きると思わないといけない」と語る。
能登半島地震では新たな課題が突きつけられた。科学者が特に注目したのが輪島で横倒しになった鉄筋コンクリート造りのビルであった。...
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能登半島地震以降も各地で地震が絶えない日本列島、日本は巨大地震の度に対策を重ね、足元にリスクを抱えながらも都市を発展させてきた。建築耐震工学の専門家は「私たちはどこかで科学の力によって災害を克服できたと勘違いして、非常に危険な場所に街を広げてきてしまった。能登で起きたことは当然、東京でも起きると思わないといけない」と語る。
能登半島地震では新たな課題が突きつけられた。科学者が特に注目したのが輪島で横倒しになった鉄筋コンクリート造りのビルであった。これまで地震で建物が倒壊する原因は柱や梁などが壊れることだったが、輪島で倒壊したビルは柱や梁に比べて、杭基礎が大きく損傷していた。
杭基礎とは建物を支える基礎の一種で、強度の高いコンクリートなどでつくられている。高層ビルは杭をかたい地盤まで打ち込んだり、地盤との摩擦を利用したりすることで建物を支えているが、今回、杭基礎が大きく損傷した原因には軟弱地盤で揺れが増幅され、杭と建物が引きちぎられたと考えられている。
川が砂や泥などを運んできて作られた軟弱地盤はかたい地盤と比べて地震の揺れを何倍にも増幅させる性質があるため、地震の被害のリスクが高いとされている。検証の結果、輪島で倒れたビルの地盤は超軟弱地盤と判定された。
日本最大の軟弱地盤が広がっているのが首都東京を含む関東である。軟弱地盤の地域で人口がどれほど増加しているのか解析した、防災科学技術研究所・藤原広行は「今、日本は全体として人口減少傾向に入っているが、利便性やそうしたものを優先すると軟弱地盤に人が住まざるを得ない。それが次に起こる大きな地震による被害のリスクを高める要因の1つになっている」と指摘する。科学者たちが警戒を強めているのが30年以内に70%の確率で起こると予測される首都直下地震であるが、国の被害想定では軟弱地盤に立つビルの杭基礎への影響は考慮されていない。
建築基準法では1981年に震度6強以上の揺れでも倒壊しないようにする新耐震基準が定められた。この基準に基礎は含まれず、杭基礎の耐震設計が明確に義務づけられたのは2001年のことだったが、高さ60m以上の大規模な建物など以外は震度5強程度の想定にとどまっている。
今回、輪島では現行の耐震基準で2000年代に建てられたビルでも傾く被害が確認されている。基礎の補強は技術的な難しさがあるとともにコストも大きな課題になっている。能登での被害を繰り返さないために科学者たちは答えを探している。
杭基礎に関する耐震基準の国の制度設計に関わった科学者である旧建設省・建築研究所・杉村義広は「相手は地盤だから、学術的にもわからないことが多すぎる。最近、特にいろんなところで震度7なんていう地震が起きて、特に基礎については新しい問題がその場、その場で出てくる。そういうものに対していちいち全部応えられるかと言えば、応えられないというのが現実だ。人命まで響いたということになると国の予算をどんどん出せとかそういうふうになるのが現実」と話す。地震は社会のもろさをついてきている。
首都直下地震に杭基礎のビルは耐えられるのか。科学者と共に東京の軟弱地盤に立つビルを想定し震度6強の揺れで検証した。まずは杭基礎が耐震設計されていない7階建ての古いビルは建物を支えられなくなる可能性が示された。一方、2001年以降に建てられた現行の基準の杭基礎では杭基礎の一部で損傷するリスクがあることが示された。
東京工業大学・田村修次教授は解析結果について「現在、建築基準法を満たす杭でも首都直下地震みたいな大きな地震が来ると杭が破壊され、建物が沈下・傾斜するリスクがあることをこの解析は示している」と語り、警鐘を鳴らした。
東京都では耐震性の高い建物オフィスビルなどを帰宅困難者の受け入れ先として想定し、マンションを在宅避難の場所として推奨している。しかし最悪の場合、その備えが成り立たない可能性がある。軟弱地盤に立つビルの中には杭が破壊され傾く被害が出るものも出てくるほか、オフィスビルやマンションなどで使用が困難になる場合がある。そうなると命をつなぐための避難場所が不足するおそれがある。
その後に待ち受けているのは厳しい現実だ。例えばマンションが沈み込み1階が大きく壊れたビルに再び住むことは望めない上、復旧の見通しは立たない。暮らしや経済に想定以上のダメージが与えられる可能性もある。
大規模災害に関する国のワーキンググループで中心的な役割を担う福和伸夫は地震のリスクを知ることが命を守る第一歩だと伝え続け、「周りのビルが背が高いということは、1棟倒れたら本当に道を塞いでしまう。緊急輸送道路が使えないと救援の車両が入れない。初動の人の命を救うことができない」「現状の私たちの国が地震に対しどの程度安全なのか知る必要があるので、できる限り早くすべての建物の耐震診断を実施し、これを国民が知る形をとることが望ましい」と指摘した。
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熱波襲来~いのち・暮らしの危機~(8/24放送)
最高気温40度近い猛暑日が珍しくなくなった日本。“異常な暑さ”は今、私たちの命と暮らしを脅かしている。熱中症の救急搬送は7万6000人を超え、各地の病院には熱中症の対策をしていたにも関わらず倒れたという人が次々と運び込まれている。内臓や脳にまで深刻な障害をもたらす“災害級の暑さ”。この暑さの原因を探ると、見えてきたのは日本周辺の海の異変だった。
今年7月の世界の海面水温を過去30年の平均と比較した図を見ると、日本近海の温度が上がったことを示す赤色が広がっている。...
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最高気温40度近い猛暑日が珍しくなくなった日本。“異常な暑さ”は今、私たちの命と暮らしを脅かしている。熱中症の救急搬送は7万6000人を超え、各地の病院には熱中症の対策をしていたにも関わらず倒れたという人が次々と運び込まれている。内臓や脳にまで深刻な障害をもたらす“災害級の暑さ”。この暑さの原因を探ると、見えてきたのは日本周辺の海の異変だった。
今年7月の世界の海面水温を過去30年の平均と比較した図を見ると、日本近海の温度が上がったことを示す赤色が広がっている。世界の中でも特に日本近海の水温の上昇が大きい。こうした海面水温が極端に高い状態が一定期間続く現象を「海洋熱波」と呼ぶ。実は、この「海洋熱波」が近年の猛暑と深い関係があることが分かってきた。気候変動を研究している東京大学先端科学技術研究センター・中村教授らの研究グループは今年7月、「海洋熱波」が猛暑をもたらすメカニズムについての論文を発表した。
通常、北日本の海は夏でも海水温が比較的冷たい状態にあり、下層雲という低い雲や霧が多く発生している。この下層雲は太陽光を反射するため、天然の日よけとして海が温まるのを軽減してくれている。ところが「海洋熱波」が起きると、その熱で大気がかき乱され下層雲が減少、海には直射日光が降り注ぎ、ますます海水温が上がっていく。すると海面から発生する水蒸気の量が増加。水蒸気には温室効果があるため熱がこもりやすくなる。このようにして去年、海洋熱波による猛暑が北日本を襲ったと中村教授らは説明する。
さらに中村教授は似たような現象が今年はより広い範囲で起きていると指摘している。そもそも「海洋熱波」が起き始めるようになった原因の1つとして南方から流れ込む黒潮の異変が注目されている。黒潮は日本近海を流れる代表的な暖流だが、通常、黒潮は房総半島まで北上し、その後は東に流れていく。しかし去年の夏、この暖かな海流が極端に北上し東北沖にまで達していることが観測された。さらに今夏、黒潮は東北沖まで達したあと、その一部がちぎれて停滞するなどして海水温の高い状態が維持されていることが分かった。
「海洋熱波」による海水温の上昇は暑さだけでなく、近年の大雨や台風にも大きな影響を与えている。通常、日本列島に近づいてくる台風は海中深くの冷たい水をかき混ぜながら進む。海面水温が下がることで水蒸気の供給が減り、台風の勢力は自然と弱まっていくが、近年は「海洋熱波」などで海の深いところまで暖かい状態にあるため、かき混ぜられても水温が下がらず強い勢力が保たれてしまう。今後、日本は強い台風に備える必要がある。
猛暑と水不足の影響は我々の食卓にも影響を与えている。日本屈指のブランド米を生み出す新潟県魚沼地域は見た目の評価が低い2等米などが増加し、粒が白く濁る被害が広がるなど、想定外の事態に見舞われた。異常な高温に備えるため、新潟県は暑さに強い品種への転換を進めている。需要の高いコシヒカリの供給を維持しながらも、暑さに強い新たなブランド米「新之助」を定着させようというのだ。
さらにリスクを減らすために県は最先端の技術も活用。今年から稲の生育状況を可視化するアプリを導入し、衛星画像から葉の色や大きさを分析し色分けすることで暑さによる生育の遅れを早期に発見し、肥料の量やタイミングを調整している。
北海道の酪農でも模索が始まっている。ここ数年、暑さによって牛が妊娠しづらくなっている。乳牛は気温が17度を超えるとストレスを感じ始める。暑い日が続き、体力が奪われたことで卵巣の機能が低下している可能性が高いという。
去年、北海道では報告されているだけで88頭の乳牛が熱中症で死んだ。記録的な猛暑となった去年8月。北海道では暑さで牛の食欲が低下したことなどで、生乳の生産は1か月で2万トン以上減った。食卓に牛乳を安定的に届けるため、現場は対応を迫られている。保冷剤を入れたネッククーラーや自前で作った散水装置などで、少しでも体温を下げる手探りの対策が進められている。
国連も危機感を強め、強制的な労働制限などより踏み込んだ対応を議論し始めている。日本では東京・葛飾区が25の小学校での屋外プールの使用を中止し、代わりに民間のスポーツ施設などの屋内プールを活用している。猛暑などの影響を受けずに水泳の授業ができるよう、学校のプールからの切り替えを急ピッチで進めている最中だ。
山形・米沢では熱中症の危険度を測るAIカメラを市内すべての中学校に導入し、その日の暑さ指数に加え、顔色や口角の下がり方、汗のかき方など様々な項目をもとに総合的に判定し、自分の危険度がどの段階にあるか、色で4段階に表示される測定を市は日課として導入した。
東京都新宿区のビル解体現場では暑さ指数を計測する機械が導入され、その日の暑さ指数が至る所に貼り出され、通路にはプロジェクターで映し出されるなど、その日の危険度が常に意識できるよう徹底されている。これまでの常識が通用しない暑さになっている。命を守るためには考え方や行動を何段階か大きく変えることが促されている。
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