アフガニスタン東部ジャララバードで、民間活動団体(NGO)「ペシャワール会」の中村哲医師が今月4日、現地で銃撃されて亡くなった事件は、日本だけでなく英BBCなど海外でも広く報道された。
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『BBC』は、中村哲医師がどのような人物だったのかを詳細に紹介。「1946年に日本の福岡市で生まれ、医師の資格を得た後、ハンセン病患者の治療のため1984年にパキスタンに移住した。2年後、彼はアフガニスタンに向かい、ナンガルハールの人里離れた地で最初の診療所を開き、NGOであるピース・ジャパン・メディカル・サービス(PMS)を設立した。
PMSは、ピーク時には10の診療所を運営し、ハンセン病患者や難民などを支援していた。...
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『BBC』は、中村哲医師がどのような人物だったのかを詳細に紹介。「1946年に日本の福岡市で生まれ、医師の資格を得た後、ハンセン病患者の治療のため1984年にパキスタンに移住した。2年後、彼はアフガニスタンに向かい、ナンガルハールの人里離れた地で最初の診療所を開き、NGOであるピース・ジャパン・メディカル・サービス(PMS)を設立した。
PMSは、ピーク時には10の診療所を運営し、ハンセン病患者や難民などを支援していた。
中村医師は、清潔な水がないがゆえに人々がコレラやその他の病気で苦しんでいた村で、井戸の建設や灌漑に深く関わった。2003年、アジアのノーベル賞として認知されているラモン・マグサイサイ賞を受賞した。」
更に『BBC』は2014年、中村医師がジャパンタイムズに語ったことばも紹介。「安全性を確保するために毎日異なるルートで仕事出かけていた」こと。同時に、彼がとることができる最善の予防策は「みんなと友人になる」ことであると。また、「私は敵を作らないようにしてきました。たとえ私が原則のない人だと思われたとしても、みんなと友人になることが一番良いのです。私がそこで頼れるのは唯一人だけだからです」「そして、それは銃を持つより驚くほど効果的なのです。」という中村医師の言葉を伝えた。
仏『ル ポワン』は、1980年代よりアフガニスタン東部で病人や農業関係者を助けてきた日本人医師が、同乗していた運転手や警備員5人も含め銃撃されて殺害されたことを報道。
そして、カブールでは、100人以上の人々が(中村医師は)「本当のヒーロー」だと伝えるプラカートを持ってろうそくの周りに集まり、参加者の一人は「中村医師は慈悲心の象徴だった」と話したと伝えている。アフガニスタンの大手民間テレビチャンネルTolonewsは、事件翌日にいくつかの州で告別式が執り行われる中、中村医師に関する特集番組を長時間にわたり放送したという。
また『ルポワン』は、NGOに対する攻撃は非常にまれであるものの、中村医師に対する銃撃事件は、11月29日に国連開発計画(UNDP)で働いていた米国人が、カブールで国連の車両を狙った爆破に巻き込まれて死亡した事件に続くものだと伝えている。
カタール『アルジャジーラ』は、中村医師はアフガニスタンで「ムラド伯父さん」という呼び名で知られており、30年以上にわたる彼の人道的活動を通して多くの人々の愛と尊敬を得たと紹介。
アフタにスタンでの町の人々の反応に注目し、「中村医師はアフガニスタンを変えようとし、アフガニスタン社会で最も弱い立場の人々に仕えようとしたために殺された」とボランティア芸術活動団体のArtLordsの共同創設者であるオメイド・シャリフィさんのコメントを紹介している。
中村医師のアフガニスタンの人々のためにしてきた素晴らしい仕事を忘れないために、ArtLordsのボランティアチームは同医師を描いた壁画を1つはジャララバード市に、もう1つはカブール市に描いたという。またシャリフィさんは、普通の住民から政府関係者まで、中村医師の遺産を引き継ぐことを誓ったと伝えている。
ナンガルハールのカマ地区の教師で居住者のアジュマルさんは「中村医師士の死は私たちにとって大きな損失です。私たちは彼をアフガニスタンの真の忠実な息子として常に覚えるでしょう」とアルジャジーラに語った。
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